幸徳事件

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幸徳事件 


1910年11月、旧刑法73条<1908年10月より実施、1947年現刑法より削除。天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス>により幸徳秋水外25名が大審院に付され翌年1月に24名に死刑判決(12名は翌日無期に減刑)が出され12名が処刑された事件。初めての刑法73条の適用、被告とされた人数が多いこともあり固有名が付かず「大逆事件」と一般的に言われる。他の「大逆罪適用事件」と区別する場合は被告たちの中心人物とされた幸徳秋水の姓から「幸徳事件」と言われる。

被告の内、宮下太吉外3人は爆裂弾により明治天皇への攻撃を考えていたが実行計画は中途半端なままで実現に至るには曖昧なものであった。それは大審院判決理由において<爆裂弾を用い馬車で通行する天皇に投げつける>秋季逆謀と認定されたが、大審院が有罪とした幸徳中心の全体計画なるものは完全なフレームアップである。元老山縣、首相桂の藩軍閥政府による無政府主義者、社会主義者圧殺の政策のもと弾圧が拡大し、無政府主義者、社会主義者だけではなく被告とされた家族、友人たちにも捜索押収、取調べが行われた。またその過程で不敬罪弾圧、出版物への取締が強化された。
 このフレームアップ事件は社会主義者だけではなく文学者たちにも大きな影響を与え、徳富蘆花は「謀反論」と題した講演を第一高等学校で行い死刑廃止論の立場を鮮明にした。石川啄木は社会主義と被告たちへのシンパシーをもち裁判を研究、作品にも結実させた。大逆事件後を「社会主義運動の冬の時代」と言うケースが多いが、しかし赤旗事件から大逆事件へのフレームアップに至る時期、大審院公判中まで徹底した無政府主義、社会主義運動への弾圧が続き実際の「冬の時代」であった。1911年、同志たちが処刑された後、残された堺利彦は月に一回の「茶話会」から再起を始めた。大杉栄、荒畑寒村はいちはやく運動の再構築を図り、1912年『近代思想』を刊行した。

非戦論と直接行動派

20世紀始め、日露戦争前の1903年、堺利彦、幸徳秋水らを中心に平民社に拠った人たちは非戦論と社会主義を掲げ、運動を国内各地に広げはじめた。明治専制政府の藩閥・軍閥政治は内部対立と政党政治が不可避な状況の中、崩壊しつつあった。しかし社会主義運動の更なる拡大を恐れ、帝国主義諸国に伍して東アジアでの植民地確保、侵略戦争体制に向け国内専制体制を防衛しようとし、社会主義運動に対し機関紙発行、演説会、結社への弾圧を強化し抑圧政策を推進めた。1906年よりクロポトキンのアナキズム思想の影響を受けた幸徳を中心にし直接行動派が台頭し始め、アジアからの留学生たちにも影響を与え始めた。議会政策中心の社会主義者たちと分岐が鮮明になったが、政府も対策をすすめ1908年、金曜会屋上演説事件、神田錦輝館赤旗事件により過剰な弾圧を行い大杉栄、堺利彦らの主要な活動家を裁判にかけ実刑攻撃により活動を封じ込めた。幸徳は病気療養で中村に戻っていて難を避けられた。

アナキズム思想の影響を受けた活動家や社会主義者は秘密出版で対抗し、ゼネスト論や人民への抑圧政治の根源には天皇の存在があるという事実を暴露した『入獄紀念無政府共産』を刊行、政府の弾圧に抗した。幸徳ですらクロポトキンの主要理論書『パンの略取』を翻訳しながら、「平民社訳」とし政府への出版届出の前に頒布するという実質秘密出版をせざるを得なかった。1909年、幸徳は千駄ヶ谷の地に移った平民社を拠点に赤旗事件では無罪を勝ち取った管野須賀子と『自由思想』を創刊し公然運動を盛上げようとした。しかし出版法違反で続けての刊行ができず、管野も一時拘引され、裁判では罰金刑が確定し活動が行き詰まった。菅野や長野出身の活動家で一時平民社に住込んでいた新村忠雄は合法活動が圧殺された状況を打破しようと模索し、政府に対する闘争心が強い古河力作や爆裂弾を使い天皇を倒したいという社会主義者で機械技工労働者の宮下と連絡を取り始めていた。

宮下は爆裂弾を一度完成させ試爆させていた。幸徳自身は1910年になり、最後の拠点「平民社」を解散し、活動と生活立直しのため湯河原で執筆に専念することを決意、管野は罰金を払わず収監、100日間の労役場留置の策を選択せざるを得ず5月18日に東京監獄に入る。

弾圧開始

そのような状況下、長野の明科製材所で働いていた宮下の元へ新村が度々訪れた件、またブリキ缶と薬品を分散して所持していたことが察知され、5月25日爆裂弾の材料にあたるとして爆発物取締罰則違反で逮捕された。同日、長野の屋代に戻っていた新村忠雄と薬調合のための薬研を調達しただけの兄新村善兵衛も逮捕される。続けて平民社に出入りし、宮下が明科で保管していた薬品包みの連絡先として記されていた東京の古河も5月28日に連行され29日、松本署において爆発物取締罰則違反で逮捕。宮下は29日に至り明治天皇が馬車で通行時に爆裂弾を投げつけるという「相談」が存在していたことを供述、検事聴取に新村、管野、古河の名を出す。これを契機に刑法73条の該当事件として検事総長に書類送致される。ブリキ缶を依頼され作り自室に薬研を預かっていた宮下の職場の同僚、新田融も帰郷先の秋田から連行され、松本で6月4日逮捕された。 31日にはその5人に加え、湯河原滞在の幸徳秋水と東京監獄在監中の管野に対し大審院に予審請求されることが決定した。幸徳は6月1日湯河原を離れようとした時、管野は6月2日に監獄内において逮捕される。

拡大

当初はこの7人の「陰謀」事件として報道されていることからも官憲の一部には7人だけで「事件」を収束させる判断もあったようだが、大審院直轄になった検事たちが、平民社に出入りしていた社会主義者や供述で名を出された社会主義者を各地の当該警察署に拘引、直接の取調べ、捜索押収の過程で刑法73条該当事案として強引にこじつけ最終的には19人を加え、幸徳以下26人の「大逆事件」としての一大フレームアップの物語を完成させた。

更なる弾圧の拡大

官憲側の史料である『社会主義者沿革第三』によると「予審中、被告の外、1908年11月前後、<無政府共産主義者>にて大石、内山と会合し幸徳を平民社に訪問、寄宿しその説を聴き<本件陰謀熟知>せりと認められる者は東京、横浜、群馬、愛知、京都、大阪、神戸、岩手等の各地に散在」と記述されている。この<本件陰謀熟知>自体もフレームアップである。残された公判記録にはその「各地」の社会主義者の証人「調書」が数十人分残されている。この場合「無政府共産主義」という官憲の認識は1906年以来の直接行動派としての幸徳に同調していた同志たちも含まれている。家宅捜索や取調べで、幸徳たちに関連づけられなくても弾圧の口実を引っ張り出し、実刑弾圧を受けた社会主義者は多かった。前出の官憲史料に記録されているだけでも9月から12月にかけ「不敬罪」での判決が10件あり、1名が懲役4年、9名が懲役5年の投獄攻撃を受けている。かつて幸徳、新村と「気脈を通じた」とされた諏訪郡境村を中心とした農村運動のグループも治安警察法違反で14人が検事局に送検、1名が禁錮8ヶ月、10名が禁錮6ヶ月(内執行猶予5名)の判決を受けた。

大審院予審

大審院検事局の公訴事実を、平出弁護人が『特別法廷覚書』で骨子を記録している。その立会い検事平沼騏一郎の論告(1910年12月25日)は1908年11月、巣鴨平民社での、それぞれ別の日での大石誠之助、松尾卯一太と幸徳との話し合いを陰謀とし「本件の発端なり」と位置づけ、
「第一 東京・信州方面(幸徳直轄)、
第二 大石(誠之助)の紀州陰謀、
第三 松尾(卯一太)の九州、
第四 内山(愚童)の遊説(大阪・神戸)」
と広域化、各地の社会主義者へ「大逆罪」弾圧を拡大した内容である。

この構成には三つの「大逆罪」が含まれている。
1 天皇への爆裂弾投擲
2 暴動を起こし二重橋(宮城)へ逼る
3 皇太子に危害を加える

大審院がフレームアップした幸徳秋水(伝次郎)の「大逆」の意図を『判決理由』から抜粋すると以下の物語となり「11月謀議」となる。

「11月19日東京府北豊多摩郡巣鴨町伝次郎(幸徳)宅に於て、伝次郎が誠之助及び森近運平に対し赤旗事件連累者の出獄を待ち、決死の士数十人を募りて、富豪を劫掠(こうりゃく・財を奪い)し貧民に賑恤(しんじゅつ・賑し)諸官街を焼燬し、当路の顕官を殺し、且つ進んで宮城に迫りて、大逆罪を犯す意あることを説き、予め決死の士を募らんことを託し、運平(森近)、誠之助(大石)は 之に同意したり………」
「11月卯一太(松尾)もまた上京して伝次郎を訪問し、伝次郎より赤旗事件連累者の出獄を待ち、決死の士数十人を募り、富豪の財を奪い貧民に賑し、諸官街を焼燬し、当路の顕官を殺し、進んで宮城
に逼りて大逆罪を犯さんと意志のあることを聴き、これに同意して決死の士を養成すべきことを約し……」  この「謀議」は空想が生み出したものを検事・判事が文にしたものである。故にこの文言以上に内容が語られることはない。計画の証明も実行できる物的証拠も無く証人調べも却下している。そして全ての「陰謀」を幸徳につなげ、幸徳の「無政府共産主義」に全被告が感化されたことになっている。その「無政府共産主義」の内容も、議会政策を否定し直接行動を主張し暴力革命を唱え、クロポトキンの『パンの略取』を手にしたことである。大審院はその思想すら語れず、行為を裁かず「主義」を裁いているのである。1884年の太政官布告による爆発物取締罰則も治安弾圧を目的とし前文は実行行為のみではなく、思想や考えを含めて裁くことを本質としている。大逆罪もまた同様である。  11月謀議は幸徳がパリ・コミューンや1905年のロシア革命での労働者の決起を雑談で同志に話したのが、予審でフレーム・アップされ、さらに大石、松尾が新宮、熊本に戻り同志に東京での「幸徳の革命をめぐる雑談」として伝えたことがさらなるフレームアップへの糸口となった。さらに内山愚童を無理矢理組み込むための皇太子「暗殺」計画なるものをフレームアップしている。

 全ての環に幸徳を存在させ内山を補強人物とし、大石、松尾を軸とし大阪、神戸、和歌山、熊本の人脈へと繋げた。『熊本評論』は1908年の「赤旗事件」の頃は幸徳の影響を受け実質的な直接行動派の機関紙になりつつあった。松尾は無政府共産主義に傾いていた。神奈川、名古屋の同志も一時はつなげられようとした。判決理由でことさら<赤旗事件の連累者を待ち>と虚構の物語を記しているのも、あわよくば堺、大杉たちを再び弾圧せんとする目論見がある。
大石は7月6日、高木顕明、峰尾節堂、崎久保誠一は7月7日、成石勘三郎を7月8日、成石平四郎を7月14日に起訴決定。熊本関連は新美卯一郎、飛松与次郎、佐々木道元を松尾と同じく8月3日に起訴決定。 松尾、飛松は前年から新聞紙条例違反の禁錮刑で熊本監獄に在監していた。架空の「11月謀議」時に巣鴨平民社に同居していた森近運平は岡山に戻っていたが6月15日に起訴決定。 巣鴨時代の平民社に住込み、その後幸徳から離れた坂本清馬は8月9日起訴決定されている。( 7月26日、東京にて印刷所で労働中、浮浪罪とフレームアップされ拘引、数日後に拘束)

 さらに1910年8月21日、大阪にて内山愚童の皇太子暗殺計画(「オヤジをやめて、セガレをやれば胆をつぶして死ぬだろう」なる放言)なる二つめの「大逆罪」フレームアップを組み込み、内山の歴訪した大阪から武田九平、岡本顕一郎、三浦安太郎は8月28日に起訴決定。神戸から神戸平民倶楽部の岡林寅松、小松丑治を9月28日に起訴決定、内山愚童を10月18日に起訴決定した。(内山は出版法、爆発物取締罰則違反で東京監獄にて服役中であった)判決では「愚童、寅松、丑冶の行為は各同条の規定中皇太子に対し危害を加えんとしたる者は死刑に処すとあるに該当し、被告平四郎。安太郎の行為は各同条規定中天皇に対し危害を加えんとしたる罪と、皇太子に対し危害を加えんとしたる罪の刑に処すべく……」とされている。   6月28日に拘引された奥宮健之は自由民権運動の世代でかつての自由党壮士。無政府主義、社会主義と無縁の立場であった。幸徳とは同郷の縁で交流があり、1909年10月、昔の仲間から爆裂弾の製法情報を入手し幸徳にそれを伝えたという件で巻き込まれた。(予審判事意見書では「伝次郎一派を緩和せしめんため…懐柔策を協議」とあり政治ブローカーとの間にたち金銭利益を得ようとした気配もあるが成功していない。このような動きと立場の違いが一部では政府のスパイ説を生み出した。) 11月1日、検事総長は全員有罪の意見書を大審院に提出し、9日、予審終結、公判開始決定となった。11月10日、被告たちの接見、通信禁止は解除された。幸徳は20日か21日に『基督抹殺論』を脱稿している。

予審訊問調書

「本体」といわれる東京(平民社の一部)での天皇への攻撃相談と、信州・明科の宮下の爆裂弾関連を予審訊問から整理すると次ぎのようになる。
1 宮下太吉が爆裂弾を一度完成させ試爆をしたこと。本人の供述だけ。
2 宮下、管野、新村、古河が天皇に爆裂弾を投げつけるという相談。
(相互の供述)通過の際の投擲順番を籤引きで決めた。そのための爆裂弾は完成されていない。
いつ何処で決行するかも相談されていない。但し後に古河は「参加する振りをしていたが抜ける時期を模索していた。」と語る。
(大審院審理終結後の獄中での執筆文書)。管野は収監され、曖昧な「計画」になっていた。
3 幸徳を管野たちは相談・計画に引込もうとしなかった。
4 幸徳は、相談・計画の中味は詳細には聞いてはいないが、爆裂弾を使用した相談が一時期あったのは認識していた。
5 幸徳は爆裂弾の製法<薬品の配合>を奥宮に問合せていた。
6 幸徳は管野を「計画」から引き離そうとしていた。平民社を解散させた。相談の有無に関しては記憶が無いと対応。

大審院公判

弁護人は予審時選任できず、公判に付されることが決定してからようやく選任が可能となった。平出修弁護士を始め奮闘したが短期での活動では限界があった。第一回公判開廷後、一般傍聴人を入廷させておきながら傍聴禁止とし排除したが政府関係者は多数傍聴し、選任されてはいない弁護士も傍聴できた。判決公判だけ見せしめのため一般傍聴をさせたが官憲が入廷者を検問し主義者はほとんど排除された。 12月10日、特別裁判開廷、検事総長冒頭陳述、それに基づく被告訊問と陳述が続く。宮下、新村忠雄の意見陳述、12日、管野、古河、新村善兵衛、幸徳の意見陳述、13日幸徳、森近、奥宮、大石、高木、峯尾、崎久保、成石兄弟の意見陳述、14日、松尾、新見、飛松、佐々木、坂本の意見陳述、15日、内山、武田の意見陳述、16日、岡本、三浦、岡林、小松の意見陳述と連日の集中審理であった。幸徳は公判の合間、休廷日の17,18日に弁護士宛ての文書を執筆、無題であるが後に「陳弁書」と言われている。再び公判が続く。19日、幸徳らの意見陳述、20日、幸徳らの意見陳述、22日、幸徳らの意見陳述、補充審問を終え、23日、弁護人の証拠調べ、24日、弁護人の証拠書類閲覧、鶴裁判長は弁護側の証人申請を却下した。25日、検事論告、大逆罪として全員死刑求刑。27、28、29日、弁論。28日に幸徳の母は中村にて死去する。 

判決と処刑

1911年、1月15日、大審院の七判事、判決文に署名。
18日、24名に有罪判決、新村善兵衛、新田は爆発物取締罰則のみ認定、「大逆罪」を承知していたという調書は信用できないとされた。大審院の審理は形式的で、政府の意を受け刑法73条適用、取調、予審訊問をコントロールした検事総長の「有罪意見書」「論告」を追認するだけであった。
唯一の独自判断は2名を「大逆罪」から外し爆発物取締罰則違反のみで認定しただけである。しかし、そうであるならば管轄違いであったということで差し戻し審に回すのが当時の法体系に沿うものである。
大審院が有罪理由とした24名を組み込んだ全体のストーリーはフレームアップされたものであり、その計画「赤旗事件への報復、暴力による反抗、赤旗事件の連累者の出獄を待ち東京の中心で暴動<富豪の財を奪い官庁を焼き払い殺し>を起こし宮城に逼る、あるいは決死の士50名により暴力革命を起こし皇太子を殺す」、は当事の状況下では全く不可能で現実化しようが無い。
19日、遅い時間に12名の特赦決定。
19日、日本国内発行の英字紙『ジャパン・クロニクル』『ジャパン・アドバタイザー』は非公開裁判を批判。減刑者の移送が始まる。
1月20日、新村、新田、千葉監獄に移送、21日、峯尾、千葉監獄に移送、21日、12人への減刑が新聞報道される。22日 高木、崎久保、飛松、坂本、秋田刑務所に移送、22日、森近、獄中手記として「自叙伝」を書き始める。(24日の死刑執行寸前まで)「実際の処、私は多分無罪の判決を得る事と思うて居た」、22日、徳富蘆花、兄蘇峰へ「減刑されなかった12名の死刑阻止に向け、桂首相に伝わるよう」手紙を送る。22日、23日、成石、岡本、岡林、小松、武田、三浦、長崎監獄に移送。

24日、東京監獄にて11名絞首、幸徳秋水 午前8時6分 新美卯一郎 午前8時55分 奥宮健之 午前9時42分 成石平四郎午前10時34分 内山愚童 午前11時23分 宮下太吉 12時16分 森近運平午後1時45分 大石誠之助 午後2時23分 新村忠雄 午後2時50分 松尾卯一太 午後3時28分 古河力作 午後3時58分 処刑  宮下太吉、執行寸前「無政府党万歳」と叫んだと伝わる。

25日、管野須賀子絞首。

データアップロード/2014/06/17


幸徳事件関連家宅捜索による不敬事件、治安警察法の「摘発」

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1910年

9月15日 田中佐市方家宅捜索陰謀事件関係者内山愚童より郵送を受け『入獄記念無政府共産』配布の疑い

9月17日 不敬罪で拘留、田中佐市、金子新太郎

11月21日 横浜地裁、懲役5年の判決

9月26日 杉山正三、不敬罪で検挙、田中宛葉書記載文字

10月29日 横浜地裁、懲役5年

11月4日 名古屋地裁、不敬罪で起訴、即日懲役5年判決、鈴木楯夫

10月19日 前橋地方裁判所、重禁錮5年、岩崎松元

11月22日 前橋地方裁判所、懲役5年、長加部寅吉

11月22日 前橋地方裁判所、懲役4年、坂梨春水

12月21日 東京地方裁判所、懲役5年、田中泰

12月21日 東京地方裁判所、懲役5年、相坂佶

12月1日 東京地方裁判所、懲役5年、橋浦時雄

治安警察法

6月22日 治安警察法28条、上諏訪警察署に引致、小池伊一郎

(幸徳、新村と気脈を通じ1907年11月1日諏訪郡境村社会主義伝道研究を

目的として「喚醒会」を組織、解散。「第二喚醒会」なる秘密結社を組織

6月24日 関係者3人取押さえ

25日 3人

26日 5人を取押さえ

27日 1人

27日 検事局へ13名の身柄送致

30日 1名を追送

13名を主義者に編入

9月19日 長野地方裁判所判決、禁錮6ヵ月から8ヶ月(執行猶予5人)

 


「幸徳事件」に関わる新聞紙条例違反、新聞紙法違反


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1910.11.8発行

「巷頭微語革命と暗流」(橋浦時雄寄稿)「社会主義者陰謀終結」と題した記事

『因伯時報』5708号

11.13 処分、裁判禁錮4ヶ月、罰金150円

1910.12.22発行

「爆発物隠匿事件」無政府主義を賛したるもの

『宇和島朝報』546号

12.23処分 禁錮3ヶ月

1910.12.26発行

「所謂第二の維新」幸徳秋水の挙を暗に賞揚

『高知月曜』

12.30 発売頒布禁止差押

「無政府党と政府」『東京信用日報』1.20 発売頒布禁止差押

「逆賊獄中の書束」『毎日電報』1.21 発売頒布禁止差押

「逆徒の書信」『大阪毎日新聞』1.21 発売頒布禁止差押

「秋水と親交ある枯川の談話」『中国民報』1.22 発売頒布禁止差押

「ザ・リーダー・オブ・ザ・ソシアリスト」『ジャパン・アドバタイザー』1.22 発売頒布禁止差押

「幸徳と堺枯川、社会主義と無政府主義」『九州新聞』1.24 発売頒布禁止差押

「秋水と水魚の交りある枯川の実話」『土陽新聞』1.25 発売頒布禁止差押

「徳富蘆花一高に逆徒を弁護す」『やまと新聞』2.7 発売頒布禁止差押

「無政府共産主義は絶対に理想なり」『西海新聞』2.4 発売頒布禁止差押

「残れるニヒリスト」と題する主義煽動的記事『九州民友新聞』2.8 発売頒布禁止差押

「何故に無政府主義は発生せし乎」『神風』2.5 発売頒布禁止差押

「如何にせば無政府主義を勦絶するを得べき乎」『神風』2.5 発売頒布禁止差押

「基督抹殺論」『社会新聞』3.15 発売頒布禁止差押

「続基督抹殺論」と題し幸徳秋水を賞したるもの『大阪夕報』3.18,20 発売頒布禁止差押

管野須賀子「死出の道艸」

管野須賀子



管野須賀子「死出の道艸」


死刑の宣告を受けし今日より絞首台に上るまでの己れを飾らず

自ら欺かず極めて卒直に記し置かんとするものこれ                             

 明治四十四年一月十八日

                  須賀子

                   (於東京監獄女監)

明治四十四年一月十八日 曇

 死刑は元より覚悟の私、只廿五人の相被告中幾人を助け得られ様かと、夫のみ日夜案じ暮した体を、檻車に運ばれたのは正午前、…………

 時は来た。…………

 幾つとなく上る石段と息苦しさと、…………やや落着いて相被告はと見ると、何れも不安の念を眉字に見せて、相見て微笑するさえ憚かる如く、いと静粛に控えて居る。

…………

 読む程に聞く程に、無罪と信じて居た者まで、強いて73條に結びつけ様とする、無法極まる牽強付会(こじつけ)が益々甚だしく成って来るので、私の不安は海嘯の様に刻々に胸の内に広がって行くのであったが、夫れでも刑の適用に進むまでハ、若しやに惹かされて一人でも、成る可く軽く済みます様にと、夫ばかり祈って居たが、噫、終に…………万事休す牟。新田の11年、新村善兵衛の8年を除く他の廿四人は凡て悉く之れ死刑!

 実は斯殷うも有うかと最初から思わないでは無かったが、公判の調べ方が、思いの外行届いて居ったので…………今此の判決を聞くと同時に、余りの意外と憤懣の激情に、私の満身の血は一時に嚇と火の様に燃えた。弱い肉はブルブルと慄えた。

 噫、気の毒なる友よ。同志よ。彼等の大半は私共五、六人の為に、此不幸な巻添にせられたのである。私達と交際して居ったが為に、此驚く可き犠牲に供されたのである。無政府主義者であったが為に、圖らず死の淵に投込まれたのである。

 噫。気の毒なる友よ。同志よ。

 ………… 

 噫。神聖なる裁判よ。公平なる裁判よ。日本政府よ。東洋の文明国よ。

 行れ、縦ままの暴虐を。為せ、無法なる残虐を。

 殷鑑遠からず赤旗事件にあり。此暴横・無法なる裁判の結果    は果して如何?

 記憶せよ、我同志!、世界の同志!!

 …………「驚ろいた無法な裁判だ」と、独り繰返す外は無かった。

 …………さらば、廿五人の人々よ。さらば廿五人の犠牲者よ。さらば!。

「皆さん左様なら」

私は僅かこれ丈けを言い得た。

「左様なら…………」

「左様なら…………」

太い声は私の背に返された。私が法廷を[五、六歩出ると──抹消]出たあとで、

「万歳──」

と叫ぶ──抹消]叫ぶ声が聞えた。多分熱烈な主義者が、無政府党万歳を叫んで居るので有う。第一の石段を上る時、

「管野さん」

と声高に呼んだ者もあった。

…………

無法な裁判!

…………

…………

前列の仮監の小窓から、武田九平君が充血した顔を出して、

「左様なら」

と叫ぶ。私も「左様なら」と答える。又何処からか「左様なら」という声が聞える。此短かい言葉の中に千万無量の思いが籠って居るのである。

 檻車は夕日を斜めに受けて永久に踏む事の無い都の町を市ヶ谷へ走った。

…………

十九日 曇

 無法な裁判を憤りながらも数日来の気労れが出たのか、昨夜は宵からグッスリ寝込んだので、曇天にも拘らず今日は心地がすがすがしい。

…………

 夕方沼波教誨師が見える。…………絶対に権威を認めない無政府主義者が、死と当面したからと言って、遽かに弥陀という一の権威に縋って、被めて安心を得るというのは[真の無政府主義者として──抹消]些か滑稽に感じられる。

……………………

廿日 曇

 松の梢も檜葉の枯枝もたわわに雪が降り積って、夜の内に世は銀世界となって居る。…………

★塀を隔てた男監の相被告等は、今、何事を考えて居るで有う? この雪を冷たい三尺の鉄窓に眺めて、如何なる感想に耽って居るで有う? 

……………………

両三日前堺さんから来た葉書に

四日出の御手紙拝見、獄中日記ハ卒直の上にも卒直、大胆の上にも大胆に書き給えかし切に望む。

……………………

<英語の勉強の話>

……………………

 この日記は堺さんに言われるまでも無い。一切の虚偽と虚飾を斥けて赤裸々に管野須賀子を書くのである。

★廿一日 晴れ

応挙の筆になった様な松の雪に朝日が輝いて得も言われぬ趣きがある。

<幸徳の母の死に関する記述>

 風邪の気味で頭の心が痛いけど入浴する。入浴は獄生活中の楽しみの一つである。面会・来信・入浴──みよりの無い私の様な孤独の者ハ、面会も来信も、少ないので、五日目毎の入浴が何よりの楽しみである。

 蒼々と晴れた空から鉄窓を斜めに暖かそうな日光がさし込んで居る。湯上りののびのびとした心地で机の前に座った[心地・抹消]時は何とも言われない快感を覚えた。このまま体がとけて了って、永久の眠りに入る事が出来たらどんなに幸福で有うと考える。

<吉川さんの手紙の件>

…政府の迫害を恐れて一身を安全の地位に置かん為め弊履の如く主義を擲った某某等! 噫、数奇なるは運命哉。弱きは人の心なる哉。去る者をして去らしめよ。逝く者をして逝かしめよ。大木一たび凋落して初めて新芽生ずるのである。思想界の春日──先覚者を以て自ら任ずる我々は、秋多の過去を顧みるの必要は少しも無い。前途、只前途に向って、希望の光明に向って突進すればよいのである。

 社会の同志に対する其筋の警戒は益々きびしい様子である。今回の驚くべき無法なる裁判の結果から考えても、政府は今回の事件を好機として、極端なる強圧手段を執らうとして居るに相違ない。迫害せよ。迫害せよ。圧力に反抗力の相伴うという原則を知らないか。迫害せよ。思い切って迫害せよ。

旧思想と新思想、帝国主義と無政府主義! 

まあ必死と蒲鉾板で隅田川の流れを止めて見るが好い。

<沼波教誨師の訪問>

 今回の事件は無政府主義者の陰謀というよりも、寧ろ検事の手によって作られた陰謀という方が適当である。公判廷にあらわれた七十三條の内容は、真相は驚くばかり馬鹿気たもので、其外観と実質の伴わない事、譬えば軽焼前餅か三問文士の小説見た様なものであった。検事の所謂幸徳直轄の下の陰謀予備、即ち幸徳・宮下・新村・古河・私、と此五人の陰謀の外は、総て煙の様な過去の座談を、強いて此事件に結びつけて了ったのである。

 此事件は無政府主義者の陰謀也、何某は無政府主義者也、若しくは何某は無政府主義者の友人也、故に何某は此陰謀に加担せりという、誤った、無法極まる三段論法から出発して検挙に着手し、功名・手柄を争って[苦心・惨憺の 抹消]、一人でも多くの被告を出そうと苦心・惨抹の結果は終に、詐欺・ペテン・脅迫、甚だしきに至っては昔の拷問にも比しいウッツ責同様の悪辣極まる手段をとって、無政府主義者ならぬ世間一般の人達でも、少しく新知識ある者が、政治に不満でもある場合には、平気で口にして居る様な只一場の座談を嗅ぎ出し[て 抹消]夫をさもさも深い意味でもあるかの如く総て此事件に結びつけて了ったのである。

 仮に百歩・千歩を譲って、夫等の[陰謀 抹消]座談を一つの陰謀と見做した所で、七十三條とは元より何等の交渉も無い。内乱罪に問わるべきものである。夫を検事や予審判事が強いて七十三條に結びつけんが為に、己れ先づ無政府主義者の位置に立ってさまざまの質問を被告に仕かけ、結局無政府主義者の理想──単に理想である──其理想は絶対の自由・平等にある事故、自然皇室をも認めないという結論に達するやも、否、達せしめるや、直ちに其法論を取って以て調書に記し、夫等の理論や理想と直接に何等の交渉もない今回の事件に結びつけて、強いて罪なき者を陥れて了ったのである。

 考えれば考える程、私は癪に障って仕方がない。法廷に夫等の事実が赤裸々に暴露されて居るにも拘らず、あの無法極まる判決を下した事を思うと、私は実に切歯せずには居られない。

 憐れむべき裁判官よ。汝等は己れの地位を保たんが為に、単に己れの地位を保たんが為に[不法と知りつつ、無法と知りつつ 抹消]己の地位を安全ならしめんが為に[心にも無い判決を、 抹消]不法と知りつつ無法と知りつつ、心にも無い判決を下すの止むを得なかったので有う。憐れむべき裁判官よ。政府の奴隷よ。私は汝等を憤るよりも、寧ろ汝等を憐んでやるのである。

 身は鉄窓に繋がれても、自由の思想界に翼を拡げて、何者の束縛をも干渉をも受けない我々の眼に映ずる汝等は、実に憐れむべき人間である。人と生れて人たる価値の無い憐れむべき[動物 末梢]人間である。自由なき百年の奴隷的生涯が果して幾何の価値があるか? 憐れむべき奴隷よ。憐れむべき裁判官よ。

 午後四時頃面会に連れて行かれる。堺さん、大杉夫婦、吉川さんの四人。

 面会の前に典獄から公判に就いての所感を語ってはいけないと注意された。此無法な裁判の真相が万一洩れて、同志の憤怒を買う様な事があってはという恐れの為に、特に政府からの注意があったので有う。

 赤旗事件の公判の時、控訴院の三号法廷に相並んだ以来の堺さんと大杉さん、四年以前も今日も見たところ少しも変りの無い元気な顔色は嬉しかった。彼れ一句、最初から涙の浮んで居た人人の眼を私は成るべく避ける様にして、つとめて笑いもし語りもしたが、終に最後の握手に至って、わけても保子さんとの握手に至って、私の堰き止めて居た涙の堤は、切れて了った。泣き伏した保子さんと私の手は暫く放れ得なかった。ああ懐かしい友よ。同志よ。

「意外な判決で……」というと、堺さんは沈痛な声で「[アナタや 末梢]幸徳やアナタには死んで貰おうと思っ[た 末梢]て居たのですが……」多くを語らない中に無量の感慨が溢れて居た。

 <寒村の件>

……然し世は塞翁の馬の何が幸いになる事やら、彼は私と別れて居たが為に、今日、無事に学びも遊びも出来るのである。万一私と縁を絶って居なかったら、恐らくは[今頃は 末梢]同じ絞首台に迎えられるの運命に陥って居た事で有う。

 私は衷心から前途多望な彼の為めに健康を祈り、且つ彼の自重自愛せん事を願う。

大杉夫婦に手紙、堺・吉川の両氏に葉書を書く。

廿二日 晴れ

 昨夜は入監以来始めての厭な心地であった。最後の面会という一場の悲劇が、私の[鋭い 末梢]神経を非常に刺戟したからである。去年6月2日に始めて事件の暴露を知って以来、相当に[精神 末梢]修養をしたつもりで居るのに、仮令一晩でもあんな妙な名状しがたい感情に支配せられるとは、私も随分詰らない人間だ。我乍ら少々愛想がつきる。斯様な意気地のない事で何うなる。

…………

 然し今日は誠に心地がよい。昨夜の感情は夜と共に葬り去られて、何故あんな気持になったろうと不思議に思われる程である。

……

夕刻、平出弁護士と堺さんから来信。

…………

廿三日 晴れ

<妹の墓の件>

…これとても死者の骸が煙と成り、又それそれ分解してもとの原子に帰った後に、霊魂独り止まって香華や供物を喜ぼうなどとは、元より思っても居ないのだから、考えて見れば随分馬鹿馬鹿しい話であるが、そこが多年の習慣の惰性とでもいうのか、只自分の心遣りの為にして居たのであった。

………

墓などはどうでもよい、焼いて粉にして吹き飛ばすなり、品川沖へ投げ込むなり、どうされてもよいのであるが、然しまさかそんな訳にも行くまいから同じ[埋められるの 末梢]形を残すのなら懐かしい妹の隣へ葬られたいのは山々であるが……

<武富検事の件>

……………

 田中教務所長から相被告の死刑囚が半数以上助けられたという話を聞く。

<堺のまあさんからの便りの件>

廿四日 晴れ

堺・増田の両氏と眞ア坊へ発信。

堺さんには在米の弟に記念品を送って貰う事を頼む。

紙数百四十六枚の判決書が来た。在米の同志に贈ろうと思う。

吉川さんが『酔古堂剣掃』を差入れて下すった。

針小棒大的な判決書を読んだので厭な気持ちになった。今日は筆を持つ気にならない。

吉川さんから葉書が来る。

 夜磯部・花井・今村・平出の四弁護士、吉川・南・加山・富山の数氏へ手紙や葉書をかく。

石川啄木/はてしなき議論の後 詩稿ノート

石川啄木

はてしなき議論の後 詩稿ノート


 

はてしなき議論の後  『創作』1911年7月号 第二巻第七号

我等の且つ読み、且つ議論を闘はすこと、

しかして我等の眼の輝けること、

五十年前の露西亜の青年に劣らず。

我等は何を為すべきかを議論す。

されど、唯一人、握りしめたる拳に卓をたゝきて、

「V NARODO!」と叫び出ずるものなし。

 

我等は我等の求むるものゝ何なるかを知る、

また、民衆の求むるものゝ何なるかを知る、

しかして、我等の何を為すべきかを知る。

実に五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり。

されど、唯一人、握りしめたる拳に卓をたゝきて、

「V NARODO!」と叫び出ずるものなし。

 

此処に集まれる者は皆青年なり。

常に世に新らしきものを作り出す青年なり。

青年は勇気なり、さればまた我等の議論は激し。

我等は老人の早く死に、しかして遂に我等の勝つべきを知る。

されど、唯一人、握りしめたる拳に卓をたゝきて、

「V NARODO!」と叫び出ずるものなし。

 

ああ、蝋燭はすでに三度も取りかへられ、

飲料の茶碗には小さき羽虫浮び、

若き婦人の熱心に変りはなけれど、

その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。

されど、唯一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、

「V NARODO!」と叫び出ずるものなし。

(註。V'narodo──To the People, be the People.)

 

我は知る、テロリストの

かなしき心を──

言葉とおこなひとを分ちがたき

たゞひとつの心を、

奪はれたる言葉の代りに

おこなひをもて語らんとする心を、

われとわが身体を

敵に擲げつくる心を──

しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有(も)つかなしみなり。

はてしなき議論の後の

冷めたるココアのひと匙を啜りて、

そのうすにがき舌触りに、

われは知る、テロリストの

かなしき、かなしき心を。   

 

我はこの国の女を好まず。

読みさしの舶来の本の

手ざはり粗き紙の上に、

あやまちて零したる葡萄酒の

なかなかに浸みてゆかぬかなしみ。

我はこの国の女を好まず。

 

我はかの夜の議論を忘るゝこと能ず──

新しき社会に於ける「権力」の処置に就きて、

はしなくも、同志の一人なる若き経済学者Nと

我との間に惹き起されたる激論を──

かの六時間に亘れる激論を。

「君の言ふ所は徹頭徹尾煽動家の言なり。」

彼は遂にかく言ひ放ちき。

その声は咆ゆるが如くなりき。

若しその間に卓子の無かりせば、

彼の手は恐らくわが頭を撃ちたるならむ。

我はその浅黒き、大いなる顔の

紅き怒りに膨れるを見たり。

五月の夜はすでに一時なりき、

或る一人の立ちて窓を明けたるとき、

Nと我との間なる蝋燭の火は幾度か揺れたり。

病みあがりの、しかして快く熱したるわが頬に、

雨をふくめる夜風の爽かなりしかな。

さて、我はまたかの夜の

我等の会合に常にただ一人の婦人なる、

Kのしなやかなる手の指環を忘るゝこと能はず。

ほつれ毛をかき上ぐるとき、

また、蝋燭の心を截るとき、

そは幾度かわが眼の前に光りたり。

しかして、そは実にNの贈れる約婚のしるしなりき。

されど、我等の議論に於いては、

かの女は初めより我が味方なりき。

 

我は常にかれを尊敬せりき、

しかして今も猶尊敬す──

かの郊外の墓地の栗の木の下に、

彼を葬りて、すでにふた月を経たれども。

実に、われらの会合の席に

彼を見えずなりて、すでに久し。

彼は議論家にてはなかりしかど、

なくてかなはぬ一人なりしが。

或る時、彼の語りけるは──

「我に思想あれども、言葉なし、

故に議論すること能はず。

されど、同志よ、我には何時にても起つことを得る準備あり。」

「かれの眼は常に論者の怯懦を叱責す。」

同志の一人はかくかれを評しき。

然り、われもまた幾度しかく感じたり。

しかして、今やその眼より再び正義の叱責をうくることなし。

かれは労働者──一個の機械職工なりき。

彼の腕は鉄の如く、その額はいと広かりき。

しかして彼はよく読書したり。

彼は実に常に真摯にして思慮ある労働者なりき。

彼は二十八歳に至るまでその童貞を保ち、

また酒も煙草も用ゐざりき。

彼は烈しき熱病に冒されつゝ、

猶その死ぬ日までの常の心を失はざりき。

「今日は五月一日なり、我等の日なり。」

これ彼の我に遺したる最後の言葉なりき。

その日の朝、われはかれの病を見舞ひ、

その日の夕、かれは遂に長き眠りに入れり。

彼の遺骸は、一個の唯物論者として

かの栗の木の下に葬られたり。

我等同志の撰びたる墓碑銘は左の如し──

「我には何時にても起つことを得る準備あり。」

 

わが友は、古びたる鞄をあけて、

ほの暗き蝋燭の火影の散らばへる床に、

いろいろの本を取り出したり。

そは皆この国にて禁じられたるものなりき。

やがて、わが友は一葉の写真を探しあてゝ、

「これなり」とわが手に置くや、

静かにまた窓に凭(よ)りて口笛を吹き出したり。

そは美しくとにもあらぬ若き女の写真なりき。


詩稿ノート


<はてしなき議論の後>

暗き、暗き広野にも似たる、

わが頭脳の中に、

時として、電(いなずま)のほとばしる如く、

革命の思想はひらめけども──

あはれ、あはれ、

かの壮快なる雷鳴は遂に聞え来らず。

我は知る、

その電に照らし出さるる

新しき世界の姿を。

其処にては、物みなそのところを得べし。

されど、そは常に一瞬にして消え去るなり、

しかして、かの壮快なる雷鳴は遂に聞え来らず。

暗き、暗き曠野にも似たる

わが頭脳の中に、

時として、電のほとばしる如く、

革命の思想はひらめけども──

     (一九一一・六・一五夜)

 

我等の且つ読み、且つ議論を闘はすこと、

しかして我等の眼の輝けること、

五十年前の露西亜の青年に劣らず。

我等は何を為すべきかを議論す。

されど、唯一人、握りしめたる拳に卓をたゝきて、

「V NARODO!」と叫び出ずるものなし。

 

我等は我等の求むるものの何なるかを知る、

また、民衆の求むるものの何なるかを知る、

しかして、我等の何を為すべきかを知る。

実に五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり。

されど、唯一人、握りしめたる拳に卓をたゝきて、

「V NARODO!」と叫び出ずるものなし。

 

此処に集まれる者は皆青年なり。

常に世に新らしきものを作り出す青年なり。

青年は勇気なり、さればまた我等の議論は激し。

我等は老人の早く死に、しかして遂に我等の勝つべきを知る。

されど、唯人

ああ、蝋燭はすでに三度も取りかへられ、

飲料の茶碗には小さき羽虫浮び、

若き婦人の熱心に変りはなけれど、

その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。

されど、誰一人、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、

「V NARODO!」と叫び出ずるものなし。

   (一九一一・六・一五夜)

 

我は知る、テロリストの

かなしき心を──

言葉とおこなひとを分ちがたき

たゞひとつの心を、

奪はれたる言葉の代りに

おこなひをもて語らむとする心を、

われとわが身体を

敵に擲げつくる心を──

しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有(も)つかなしみなり。

はてしなき議論の後の

冷めたるココアのひと匙を啜りて、

そのうすにがき舌触りに、

われは知る、テロリストの

かなしき、かなしき心を。

 (一九一一・六・一五夜)

 

我はこの国の女を好まず。

読みさしの舶来の本の

手ざはりあらき紙の上に、

あやまちて零したる葡萄酒の

なかなかに浸みてゆかぬ悲しみ。

我はこの国の女を好まず。

   (一九一一・六・一五夜)

 

我はかの夜の議論を忘るること能ず、

新しき社会に於ける「権力」の処置に就きて、

はしなくも、同志の一人なる若き経済学者Nと

我との間に惹き起されたる激論を、

かの四時間に亘れる激論を。

「君の言ふ所は徹頭徹尾煽動家の言なり。」

彼は遂にかく言ひ放ちき。

その声は咆ゆるが如くなりき。

若しその間に卓子のなかりせば、

彼の手は恐らくわが頭を撃ちたるならむ。

我はその浅黒き、大いなる顔の

紅き怒りに膨れるを見たり。

五月の夜はすでに一時なりき。

或る一人の立ちて窓を明けたる時、

Nと我との間なる蝋燭の火は幾度か揺れたり。

病みあがりの、しかして快く熱したるわが頬に、

雨をふくめる夜風の爽かなりしかな。

さて我は、また、かの夜の、

我等の会合に常にただ一人の婦人なる、

Kのしなやかなる手の指環を忘るること能はず。

ほつれ毛をかきあぐる時、

また、蝋燭の心を截る時、

そは幾度かわが眼の前に光りたり。

しかして、そは実にNの贈れる約婚のしるしなりき。

されど、我等の議論に於いては、

かの女は初めより我が味方なりき。

           (一九一一・六・一六)

 

我は常にかれを尊敬せりき、

しかして今も猶尊敬す──

かの郊外の墓地の栗の木の下に

彼を葬りて、すでにふた月を経たれども。

実に、我等の会合の席に

彼を見えずなりてより、すでにひと月は過ぎたり。

彼は議論家にてはなかりしかど、

なくてかなはぬ一人なりしが。

ある時、彼の語りけるは、

「我に思想あれども、言葉なし、

故に議論すること能はず。

されど、同志よ、我には何時にても起つことを得る準備あり。」

「かれの眼は常に論者の怯懦を叱責す。」

同志の一人はかく彼を評しき。

然り、われもまた幾度しかく感じたりき。

しかして、今やその眼の再び開くことなし。

かれは労働者──一個の機械職工なりき。

彼の腕は鉄の如くなりき。

しかして彼はよく読書したり。

彼は実に真摯にして、思慮ある労働者なりき。

彼は二十八歳にいたるまで──

死ぬ時まで──その童貞を失はざりき。

彼は煙草を用ゐざりき、

また、酒を用ゐざりき。

「今日は五月一日なり、我等の日なり。」

これ彼の我にのこしたる最後の言葉なりき。

その日の朝、我彼の病を見舞ひ、

その日の夕、彼遂に永き眠りに入れり。

彼の遺骸は、一個の唯物論者として、

かの栗の木の下に葬られたり。

我等同志の撰びたる墓碑銘は左の如し、

「我には何時にても起つことを得る準備あり。」

     (一九一一・六・一六)

 

わが友は、古びたる鞄をあけて、

ほの暗き蝋燭の火影の散らぼへる床に、

いろいろの本を取り出したり。

そは皆この国にて禁ぜられたるものなりき。

やがて、わが友は一葉の写真を探しあてて、

「これなり」とわが手に置くや、

静かにまた窓に凭(よ)りて、口笛を吹き出したり。

そは美しとにもあらぬ若き女の写真なりき。

     (一九一一・六・一六)

 

げに、かの場末の縁日の夜の

活動写真の小屋の中に、

青臭きアセチリン瓦斯の漂へる中に、

鋭くも響きわたりし

秋の夜の呼子の笛はかなしかりしかな。

ひよろろろと鳴りて消ゆれば、

あたり忽ち暗くなりて、

薄青きいたづら小僧の映画ぞわが眼にはうつりたる。

やがて、また、ひよろろと鳴れば、

声嗄れし説明者こそ、

西洋の幽霊の如き手つきして、

くどくどと何事をか語り出でけれ。

我はただ涙ぐまれき。

されど、そは三年も前の記憶なり。

はてしなき議論の後の

疲れたる心を抱き、

同志の中の誰彼の心弱さを憎みつつ、

ただひとり、雨の夜の町を帰り来れば、

ゆくりなく、かの呼子の笛が思ひ出されたり。

──ひよろろろと、

また、ひよろろろと──

我は、ふと、涙ぐまれぬ。

げに、げに、わが心の飢ゑて空しきこと、

今も猶昔のごとし。

       (一九一一・六・一七)

 

我が友は、今日もまた、

マルクスの「資本論」(キャピタル)の

難解になやみつつあるならむ。

わが身のまはりには、

黄色なる小さき花片が、ほろほろと、

何故とはなけれど、

ほろほろと散るごときけはひあり。

もう三十にもなるといふ、

身の丈三尺ばかりなる女の、

赤き扇をかざして踊るを、

見せ物にて見たることあり。

あれはいつのことなりけむ。

それはさうと、あの女は──

ただ一度我等の会合に出て、

それきり来なくなりし──

あの女は、

今はどうしてゐるらむ。

明るき午後のものとなき静心なさ。


 


<呼子と口笛>


目次

はてしなき議論の後 3

ココアのひと匙 5

激論 6

書斎の午後 8

墓碑銘 9

古びたる鞄をあけて 12

家 13

16


はてしなき議論の後 

     一九一一・六・一五・TOKYO

われらの且つ読み、且つ議論を闘はすこと、

しかして我等の眼の輝けること、

五十年前の露西亜の青年に劣らず。

われらは何を為すべきかを議論す。

されど、唯一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、

'V NARODO! と叫び出づるものなし。

 

われらはわれらの求むるものの何なるかを知る、

また、民衆の求むるものの何なるかを知る、

しかして、我等の何を為すべきかを知る。

実に五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり。

されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、

'V NARODO!'と叫び出ずるものなし。

 

此処にあつまれるものは皆青年なり、

常に世に新らしきものを作り出す青年なり。

われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂に勝つべきを知る。

見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しきを。

されど、唯一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、

'V NARODO!'と叫び出づるものなし。

 

ああ蝋燭はすでに三度も取り代へられ、

飲料の茶碗には小さき羽虫の死骸浮び、

若き婦人の熱心に変りはなけれど、

その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。

されど、なほ、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、

'V NARODO!'と叫び出づるものなし。


ココアのひと匙 

    一九一一・六・一五・TOKYO

われは知る、テロリストの

かなしき心を──

言葉とおこなひとを分ちがたき

ただひとつの心を、

奪はれたる言葉のかはりに

おこなひをもて語らむとする心を、

われとわがからだを敵に擲げつくる心を──

しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有(も)つかなしみなり。

はてしなき議論の後の

冷めたるココアのひと匙を啜りて、

そのうすにがき舌触りに、

われは知る、テロリストの

かなしき、かなしき心を。  


激論 

     一九一一・六・一六・TOKYO

われはかの夜の議論を忘るること能ず、

新しき社会に於ける'権力'の処置に就きて、

はしなくも、同志の一人なる若き経済学者Nと

われとの間に惹き起されたる激論を、

かの五時間に亘れる激論を。

'君の言ふ所は徹頭徹尾煽動家の言なり。'

かれは遂にかく言ひ放ちき。

その声はさながら咆ゆるがごとくなりき。

若しその間に卓子のなかりせば、

かれの手は恐らくわが頭を撃ちたるならむ。

われはその浅黒き、大いなる顔の

男らしき怒りに漲れるを見たり。

五月の夜はすでに一時なりき。

或る一人の立ちて窓をあけたるとき、

Nとわれとの間なる蝋燭の火は幾度か揺れたり。

病みあがりの、しかして快く熱したるわが頬に、

雨をふくめる夜風の爽かなりしかな。

さてわれは、また、かの夜の、

われらの会合に常にただ一人の婦人なる

Kのしなやかなる手の指環を忘るること能はず。

ほつれ毛をかき上ぐるとき、

また、蝋燭の心を截るとき、

そは幾度かわが眼の前に光りたり。

しかして、そは実にNの贈れる約婚のしるしなりき。

されど、かの夜のわれらの議論に於いては、

かの女は初めよりわが味方なりき。


書斎の午後

    一九一一・六・一五・TOKYO

われはこの国の女を好まず。

読みさしの舶来の本の

手ざはりあらき紙の上に、

あやまちて零したる葡萄酒の

なかなかに浸みてゆかぬかなしみ。

われはこの国の女を好まず。


墓碑銘

    一九一一・六・一六・TOKYO

われは常にかれを尊敬せりき、

しかして今も猶尊敬す──

かの郊外の墓地の栗の木の下に

彼を葬りて、すでにふた月を経たれども。

実に、われらの会合の席に彼を見ずなりてより、

すでにふた月は過ぎ去りたり。

かれは議論家にてはなかりしかど、

なくてかなはぬ一人なりしが。

或る時、彼の語りけるは、

'同志よ、われの無言をとがむることなかれ。

われは議論すること能はず

されど、我には何時にても起つことを得る準備あり。'

'かれの眼は常に論者の怯懦を叱責す。'

同志の一人はかくかれを評しき。

然り、われもまた度度しかく感じたりき。

しかして、今や再びその眼より正義の叱責をうくることなし。

かれは労働者──一個の機械職工なりき。

かれは常に熱心に、且つ快活に働き、

暇あれば同志と語り、またよく読書したり。

かれは煙草も酒も用ゐざりき。

かれの真摯にして不屈、且つ思慮深き性格は、

かのジュラの山地のバクウニンが友を忍ばしめたり。

かれは烈しき熱に冒されて病の床に横はりつつ、

なほよく死にいたるまで譫言を口にせざりき。

‘今日は五月一日なり、われらの日なり。’

これかれのわれに遺したる最後の言葉なり。

その日の朝、われはかれの病を見舞ひ、

その日の夕、かれは遂に永き眠りに入れり。

ああ、かの広き額と、鉄槌のごとき腕と、

しかして、また、かの生を恐れざりしごとく

死を恐れざりし、常に直視する眼と、

眼つぶれば今も猶わが前にあり。

彼の遺骸は、一個の唯物論者として、

かの栗の木の下に葬られたり。

われら同志の撰びたる墓碑銘は左の如し、

‘我には何時にても起つことを得る準備あり。’


古びたる鞄をあけて

     一九一一・六・一六・TOKYO

わが友は、古びたる鞄をあけて、

ほの暗き蝋燭の火影の散らぼへる床に、

いろいろの本を取り出したり。

そは皆この国にて禁じられたるものなりき。

やがて、わが友は一葉の写真を探しあてて、

‘これなり’とわが手に置くや、

静かにまた窓に凭(よ)りて口笛を吹き出したり。

そは美くしとにもあらぬ若き女の写真なりき。


呼子と口笛の詩稿ノートより

<家>と<飛行機>は未入力  2004.9.28

秋山清『啄木と私』に関するメモ

石川啄木

秋山清著『啄木と私』に関するメモ


1977年10月15日発行 たまつ社刊 (たいまつ新書27)

★<あとがき>

ここにはずいぶん前にかいたものが多い。しかし啄木についての私の感想は、戦後はもうそんなに動揺することがなかった。ずいぶん自己流にかいて来たけれど、いつも啄木が私を叱咤激励する立場にいることに変りがない。そんな詩人は他に一人だって、私にはいない。

★<啄木私論 アナキズム、ナショナリズム、ニヒリズム>

『文学』1962年6月、8月

■以下秋山清のテキストを要約

1925年か26年、「啄木命日の集会」に行く

渋谷、玉電発着所近く

出席者、土岐哀果、金田一京助、松本淳三、陀田勘助、野村吉哉、壺井繁治 149頁

1911年秋、金田一京助をたずねて、自分のアナキズム的傾向を是正して自分は社会主義的帝国主義だと説明したと披露

啄木最晩年の社会思想に関する緒家の発言

1926年、中野重治「啄木に関する断片」『驢馬』7号に発表

同傾向の立場のもの、渡辺順三、赤木健介、遠地輝武、石母田正らプロレタリア文学派系一般の啄木観

啄木の社会思想の評価は、なお慎重を要するもののようであり、わかく死んだ啄木がその早すぎた晩年に至って飛躍した左傾の実相は、先進性に必然に伴ったであろう未熟のひだをひそめて、今日やや決定的に考えられているように簡単に割り切ってしまえないものがあるように思われる。151頁

もっともひろく啄木について定説化しているものとして中野や渡辺、赤木ら旧プロレタリア文学派の合致する見解は、最晩年の啄木はマルクス・レーニン主義に近づくものであった、生きていたら必ずそうなったであろう、という願望を政治的な強引さで結論化したものである。…あまりにも希望的な結論をいそいだものとしか私には見えない。これらの楽天主義的な左翼文学者たちは、大正の十五年間のわが国の社会主義運動と労働運動の歴史を無視して、明治四十年代を昭和につなぎ合わせようする錯覚に立つことによって、そのような結論を啄木にいそがせたのである。つまり、政治的な主観偏重のために文学の現実的歴史的な考察に不十分だったのである。大逆事件をできるかぎり綿密にしらべようとした啄木ほどの手続きを欠落することによって「我等をして愛する啄木をかかる盲目的曲解者共から奪還せしめよ。我等をして彼の詩歌の中に痕跡を残せるその観念的虚無主義とナロードニキツームとに拘わらず、彼の真実の姿を、彼の方向を明確に感じ取らしめよ。必然こそ最も確実な理想である。──」(「啄木に関する断片」)という中野の排他的な、そして主観的な結論が生れたのである。152頁

秋山清引用の渡辺順三テキスト

座談会「現代と啄木の接点」『短歌』1961年4月

「<所謂今度の事>では、無政府主義ははっきり否定しておりますよ。無政府主義は性急な理想家だ、といい、着実な社会主義でなければならないんだということを、あの中で云っている」

秋山は「なるほど啄木はアナキストを性急な理想家とはいっている(秋山註、それは大逆事件関係者のなかの一部テロリストについての感想としてである)けれども、着実な社会主義云々のことは書いてない。(秋山、それは啄木の口をかりて渡辺が云っているのである)

赤木健介が『啄木入門』(春秋社)の「啄木の思想像」で展開していることも渡辺と軌は一つ。「無政府主義は最後の理想だが、そのまえに社会主義あるいは国家社会主義者でなければならぬというとき、啄木は現実に密着した理論と行動の必要を考え、大衆運動から孤立する傾向のあった幸徳派にたいして批判的な立場に立つことができたことを示している。ここにいう国家社会主義は、のちの右翼よファッショ勢力がとなえたようなものとはちがって、むしろマルクス主義に近いものだったように考えられる」153頁

啄木は大逆事件の判決の前後からようやくアナキズムの知識をいくらかわがものにしはじめたと考えられるからである。154頁

1月23日に啄木は事件の関係書類を整理しはじめ「日本無政府主義者陰謀事件経過及び附帯現象」としてまとめ終わったのは死刑執行の当日であった。

つづいて弁護士、平出修宅で裁判の一件書類を読んではじめて大逆事件の真相を知るり、国家権力との間に自己の対立感情の生ずることを自覚したのである。正確にはこの時に至ってはじめて革命思想としてのアナキズムの存在を知ったといっても過言ではない

1月9日の瀬川宛、2月6日の大島経男宛の手紙は事情を説明している。

アナキズムを人類最終の理想と見ることはなにもアナキズムではない。

アナキズムとはアナキズム的方法をもって社会革命を遂行しようとする思想である。とすれば、アナキズムを社会革命の終局の理想に置くといったことだけで啄木をアナキストだなどということはできない。啄木が国家権力と対立するものを自己の中に自覚したことは、アナキズムに一歩近づこうとした、といえなくはないとしても、啄木は果して国家権力との対立を如何に自覚したのであったろうか。アナキストが国家権力と対立するように権力との絶対的な対立を自覚したのであれば、まず国家社会主義でなければならぬなどという考え方は、述べられることがなかったはずである。だから、啄木がアナキズムを通過し又は卒業して所謂科学的な社会主義思想に近づこうとしたと見ることは、事実に於て逆ではなかったか。…アナキズムについてはその後に大逆事件を知り、それに注目し、進んで調べるという過程において、絶対国家の権力と対立するアナキストの存在を見てその理想に信頼を感じはじめたのではなかったのか。

156頁

幸徳秋水の「余が思想の変化」、即ち直接行動論の主張に同調するかに見えた人々といえどもはたして幾人がアナキズムまたはアナルコ・サンジカリズムを理解したか疑問と思われる時代であった。…

「海南評論」(1908年5月『日本平民新聞』)と題して中村に滞在中まの幸徳は第一インターにおけるバクーニン派の地方連合主義や無政府党が所謂暗殺主義に非らざる旨やゼネラル・ストライキの意義、非政治主義、非軍備主義等アナキズム的知識の供給につとめ、あるいはサボタージュを語り、アナキズムと労働組合との関係を述べるなど大いに努力しているが、それらのことが啄木にまで伝達されたと見得る点は、啄木が残した評論、書簡、日記等から発見できない。否、それらの幸徳の論説を啄木が入手する機会は殆どなかったという方が当っている。1907年以後の幸徳の直接行動論はアナキズム、アナルコ・サンジカリズムとしての理解よりも、片山潜らの議会中心の改良主義との対立において所謂革命的思想、革命主義として理解され賛成されていたのだと見るべきではないか。(その派に属した人々の中から後のポルシェビイキ派も生まれ出たという歴史上の事実も記憶しておく必要がある) 161頁

「啄木に関する断片」によって結論付けられ方向を与えられたものは啄木の思想ではなく「啄木」プラス「中野重治」なのである。

2

1909年までの啄木はナショナリストといわれてこそもっともふさわしい。しかしれは昭和に於けるもの──左翼、社会主義一般との対立物としての国粋主義、あるいは帝国主義の手先としての大陸侵略派、天皇一辺倒の擬古的排他的愛国主義者等々とはその底にヒューマニズムをふかく蔵していることで相距たるものであった。165頁

啄木は…アナキズムが権力と、特に国家(権力)と、つよく敵対するものであることには云い及んでいない。結論として啄木は大逆事件をとおしてアナキズムに注目し、同時に「国家」にたいして、特にその権力の性格について目をひらいたが、それは特殊なその時期の日本の支配者の権力、の行使としてのみ理解されたのではなかったか。日本国家と天皇制の問題について啄木がどの方向にこれを捉えていたかも明かでない。国家の権力組織としての根本性格について理解したのでなかったとすれば、アナキズムを知ったと云えるものではなく、時代としても啄木がそこまで明瞭に辿りつくことは不可能であった。その不徹底さが、社会主義的帝国主義という奇怪な表現を敢えてしたことともかかわっており、金田一京助のこの表現を記憶ちがいとしても、啄木をもっとも知る人がそう表現したところに啄木日頃の思考方法が却って示されていたのではなかったか。社会主義的帝国主義の帝国主義の方に力点をおいて晩年の啄木の思考を見るとすれば、彼が長く生きていたら国家社会主義? あるいは国家主義? という危惧の余地は十分あるのである。

                       178-179頁

3

甘さを剥がさず再検討することによってのみ啄木の文学の歴史的な位置を定めることができるものであろう。179頁

中野重治はまた啄木の詩や短歌をより綿密にし調べようとしなかったために、晩年の啄木が一方に社会主義に目ざめつつ、他方その目ざめにも影響されて生活と病気との挟み撃ちのなかでニヒリズムにとらえられつつあった重大な事実を見逃しているようである。啄木の、特にその最晩年の時期を歪曲なく受けとめるためには詩と短歌を重く見なければならない。大逆事件をめぐって、国家及び社会主義への認識を進めたことが作品に如何に反映したかをさぐることの必要からである。

180頁

啄木の社会主義的成長を事実以上の到達点で見ようとするよりも、矛盾のままの成長過程ととらえることの方が啄木の理解には必要である。でなかったら「秋の風我等明治青年の危機をかなしむ顔撫でて吹く」のような歌を味わうことができないではないか。

184-5頁 啄木のニヒリズム

 啄木のニヒリズムは、在るべき姿において健全に存在したならば国民生活の発展と向上にもっとも強力な推進力でなければならぬと思ってきた「国家」が、人民を圧迫する以外のものとしては在り得なかったことを知った後、それに対する力として民衆のなかに期待し得るものがなく、自己の困苦無力と併せての絶望に、その理由が求められるのである。187頁

1911年1月の土岐哀果との出会いは、啄木に小さな一時期の夢をあたえるものとなった。187頁

土岐哀果は入院中の啄木にクロポトキンの『自叙伝』を届け、また『ロシアの恐怖』を貸したのも彼であり、これがその以後のクロポトキンについての啄木の発言の手がかりであった。その前に『青年に訴う』を読んでいるがクロポトキンの研究はここに発している。後になって、彼がアナキズムに傾いたといわれたことも、さらに彼がアナキズムを知った時期が大逆事件以後であったと立証されるのも(したがって啄木が大逆事件によってアナキズムの性急さを知って転回した、というのが流説にすぎないことも)、これによってである。だがそのことよりももっと重要なのは、社会主義運動にほとんど手がかりをもつこ

とのなかった啄木が『樹木と果実』にかけた期待の大きさである。

「我々の雑誌を文学における社会運動という性質のものにしよう」ということに哀果と啄木の意見は合致したというが、こうした意見がこれまでわが国の文学雑誌に現われたことがあっただろうか。1905年に生まれた『火鞭』にこれほどの文学意識はなかった、とすれば、後のプロレタリア文学の目的にはるかにつながるものとして、さらにより近く、大杉栄、荒畑寒村の『近代思想』に先駆するものであったこの考え方の、時代にたいする意味の鋭さをわすれることはできない。190頁

ともに明治の冬の時代の下に於ける企画であったこと、異なる点は一つは歌人の得た社会意識が文学を越えて溢れんとするのであり、他は社会主義運動への弾圧に耐えて再出発の拠点たらしめんとするものであったが、時代にたいする抵抗的共感は『樹木と果実』が短歌雑誌の相貌を呈したとき啄木の中止説となり、後に土岐哀果が『近代思想』の重要な寄稿家となったことで証拠立てられる。『樹木と果実』から生活短歌の雑誌『生活と芸術』へと哀果・陽吉の協力で継続したことも忘らるべきではない。

十分力づよいものとは云えなくとも啄木と哀果の企画した「文学における社会運動」という意図は、よりはるかに根強いものとなって『近代思想』に、及び短歌の流れとして『生活と芸術』に、それぞれに一年と二年の後に現れる運命的な魁となったのである。

 だが思いをはてしなくひろげただけで『樹木と果実』は約二ヶ月の苦心の後に中止となった。啄木はまたそれから二ヵ月後の、6月15日から十数日の間に「呼子と口笛」の詩をかいた。ニヒリズムの色濃くそれは『悲しき玩具』の歌ともかさなり、絶望的な激情にいろどられている。191頁

「呼子と口笛」、ロマン主義の詩であると主張しよう 192頁

ニヒリズムが現実生活から強いられた絶望によって飛躍的に掴まれたロマン主義的色彩を帯びていることを私は強調する。いうなればニヒリズムもまたロマン主義たり得たのである。そのことを証明するのが「呼子と口笛」のなかの

暗き、暗き広野にも似たる、

わが頭脳の中に、

時として、電(いなずま)のほとばしる如く、

革命の思想はひらめけども──

にはじまる「はてしなき議論の後(一)」であり、つづいて

われらの且つ読み、且つ議論を闘わすこと、

しかしてわれらの眼の輝けること、

五十年前の露西亜の青年に劣らず。

──

若き婦人の熱心に変りはなけれど、

その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。

されど、唯一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、

'V-NARODO' と叫び出ずるものなし。

といった「はてしなき議論の後(二)」であるだろう。

193頁

この詩をこのように激情的なものに生み出した社会的な理由 が沈痛な逼息的冬の時代の圧力であったということは明らかにされてはいない。作者の啄木が実際に何の社会主義活動ともかかわり得なかったという事実がこの詩の生れた理由の一つであったということも説明されていない。これがまったく想像によってかかれた作品だということも語られなかった。幸徳秋水の死刑から五ヵ月後、啄木はこの詩の多くのヒントを土岐哀果に借りたクロポトキンの『自叙伝』から得ており、そこに記されたナロードニキの情熱に触発され、何らの活動もなく休止している日本の社会主義運動とも何も為し得ない自分自身とに反発しつつ、いわば空想の反逆的行為のなかに在ってこれらの詩はかくも激しく書かれたのである。病中の啄木が為し得たうっ屈する心の羽ばたき他ならなかった。

どんなにその詩が大正昭和の社会運動者の姿を先駆的にうたっていようとも空想は空想である。五十年前のナロードニキの行きづまりの果に立ったロシア虚無党のテロリストの心を理解出来たといっても、それは如何ともしがせたい明治の国家権力の下に民衆のなかに孤立する者の、空想的独白にすぎない。空想であったためにかくも勇ましくはげしくロマンチックに描けたのであろう。

われは知る、テロリストの

かなしき心を──

言葉とおこないとを分ちがたき

ただひとつの心を、

奪われたる言葉のかわりに

おこないをもて語らんとする心を、

われとわがからだを敵に擲げつくる心を──

しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有(も)つかなしみなり。

はてしなき議論の後の

冷めたるココアのひと匙を啜りて、

そのうすにがき舌触りに、

われは知る、テロリストの

かなしき、かなしき心を。   「ココアのひと匙」

 しかしこの詩をかく啄木は自分の絶望のすくいがたいということを知っていた。残るものはニヒリズムとその下から立ち上がるテロリストの心情だけである。とはいっても、テロリストの「行いをもて語らんとする」心と、「言葉とおこないとを分ちがたい」心をかなしき心としてしか捉え得なかったところに、精一杯の啄木がある。彼がわがものとなし得たのはそのテロリストの心情でのみあって、テロリズムとその社会的な力ではなかった。 196頁

1912年に入ってからの啄木は、窮乏のどん底にいた。

晩年のこの挫折的現象は、それがニヒルの心境であればあるほど、啄木の時代にたいする先進性を証拠だてるものと私は考えたい。明治の、敗北しなかった人々よりも、敗北的な姿の啄木に、未来への夢がかけられるのである。 198頁

★<対談・啄木の軌跡>

初出『ピエトロ』1971年9月

秋山清・伊藤信吉

(註 Kameadaによる要約)

伊藤、現代の詩人たちは短歌的抒情を否定する

牧水、白秋、啄木らの歌人はセンチメンタリズムによって自己を立証している、それはむしろ強烈な意味さえもっている。そういう点で、センチメンタリズムは詩的なものたり得ない、という簡単な考えかたは間違っているのではないかと思う 133頁

秋山、それは、わが意を得たりという発言だ。

秋山、啄木は短歌に尽きると極端に僕はそう言いたい

伊藤、啄木の社会主義思想は高度にものとか、すぐれたものとかはいえないかもしれませんが、あの時点では非常に進んでいる、…啄木が『明星』全体をひっくるめた中で、思想の質を高めたことは、詩人における時代とのかかわり方ということからして注目されるべきだと思う。時代の趨勢から抜きんでるのは、明治時代ではたいへんなことだったでしょう。そして大逆事件のことだが、あの時、与謝野鉄幹、木下杢太郎、佐藤春夫、永井荷風はそれぞれに事件に触れた作品をつくった。『明星』の中心的な人たちが事件に関心を持った。しかし、その関心の持ち方は、啄木の思的把握のようにはいかなかった。136頁

秋山、ロマン主義のしかも当時斜陽の存在であった新詩社が大逆事件に対して一番関心を示した文学者の集団ではなかったかと思うんですよ。与謝野鉄幹、木下杢太郎、佐藤春夫、平出修、啄木、これはちよっと考えてみてもいいことじゃないんですか。この問題は……。

伊藤、本来ならば自然主義文学の系統の作品が何らかの反応を示すべきなのでしょう。…

秋山、松岡荒村、思想家たるべき人だった、『荒村遺稿』というのがあって発売禁止になったのですが、その中に国家について文句をつけている論文があるのですよ。これなんか、当時問題になったはずだと思います。この荒村は先駆者として啄木に似ているし、一番近いように思います。しかし、1905年頃死にました。この彼までひっくるめて、明治時代の社会主義詩人はすべて新体詩人です。ところが大逆事件があって、その後に啄木の「呼子と口笛」が出るのですね。…つまりあれには上からの弾圧に対する啄木自身の憤りみたいなものがありますね。あそこに書かれている「墓碑銘」「はてしなき議論の後」「ココアの一匙」などに表れているような活動があったとは思わないのです。…あそこにはニヒルとテロルへの親近感がありますね。141頁

伊藤、それから、かれの社会主義思想の系譜からいえば、クロポトキンが一番近いでしょう。そうすると、かれがすぐさまクロポトキンの思想を批判して、マルクス主義に移ったということは考えられない、あの段階では…。146頁

■<秋山清による啄木伝>からの年譜化

1969年8月『子供のための伝記図書館』

岩手県北岩手郡渋民村の寺に育つ

15歳 盛岡中学3年生

短歌「あこがれ」

父は貧しい寺の僧侶

軍人にあこがれる、盛岡中のストライキで活躍

中学を退学した年に東京に出る、『明星』の与謝野夫妻を訪ねる、それからのち啄木と号して『明星』誌上に短歌、新体詩を発表、注目される

『帝国文学』『時代思潮』『太陽』に詩を発表、翌年、詩集『あこがれ』を刊行、

20歳 堀合節子と結婚、両親、妹と盛岡市内に住む、日露戦争の最中

21歳 渋民村に帰る、小学校の代用教員になる、1年きり、月給8円、小説を書く努力「雲は天才である」「面影」

22歳 5月、函館にいく、代用教員の月給12円、函館日日新聞で短歌の選者、文学、社会問題の評論

8月18日大きな火事が起きる、流浪的生活を翌年秋まで続ける

札幌、小樽、釧路と転々、地方の小新聞の記者として移る

23歳 釧路新聞社に入社、歌壇、詩壇で投書を募る、政治評論を書く、編集長格、月給25円

1908年 4月5日 釧路を去って函館に、さらに東京に出る

本郷菊坂町、赤心館に下宿、盛岡中学の上級生、友人の金田一京助を頼る

小説を書くが売れず、短歌を書く

1908年 11月1日 東京毎日新聞に小説が連載される「鳥影」

1909年 ★本郷森川町、24歳

1月10日 ★日記「自然主義作家としての飛躍」

1909年 3月1日、朝日新聞社に校正係りてせ就職、月給25円

本郷弓町の理髪屋の二階を借り家族を呼ぶ

森鴎外中心の雑誌『スバル』に参加、北原白秋、木下杢太郎、平出修も参加していた

★4月3日から6月16日までローマ字日記

6月16日 家族を上野駅に迎える

1910年 もっともすぐれた小説といわれる「我等の一団と彼」、論文「時代閉塞の現状」執筆

朝日歌壇がつくられ選者となる

「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」

大逆事件を熱心に調べる

1910年 12月 歌集『一握の砂』刊行

1911年 1月13日 土岐哀果と会う、雑誌『樹木と果実』刊行を計画

1911年 ★2月6日、大島経男宛書簡

1911年 病気が悪化

1911年 8月7日 弓町から小石川久堅町に移る(現文京区小石川5-11-7 宇津木マンション)

「呼子と口笛」の詩篇執筆

1912年 4月9日、土岐は第二歌集刊行の話を啄木に伝える

1912年 4月13日に数え年27歳で死去、久堅町(文京区)

1912年 4月15日、浅草等光寺で葬儀、土岐が生まれた寺、啄木の墓がある

1912年 6月20日、『悲しき玩具』刊行、土岐がタイトルはつける

1919年 三巻の全集が刊行される

日記

1909年

1.1金曜

今日から24歳、千駄ヶ谷に与謝野氏を訪ねる、平出君を訪ねる

1.2

1.9

連日『スバル』編集をめぐる話

1.10

1.14

小説に関して

1.15

余丁町に永井荷風を訪問、留守


吉田孤羊著『石川啄木と大逆事件』に関するメモ

1967年6月30日発行

明治書院刊

著者略歴

1902年盛岡市生まれ、岩手毎日新聞、中央新聞、改造社を経て岩手県立図書館副館長、盛岡市立図書館長を歴任。

<石川啄木と大逆事件>

1933年12月刊『石川啄木研究』

大島経男宛書信の引用 13-16頁

1910年1月9日

一友への書信(宮崎大四郎宛) 17-19頁

1910年3月13日

大島経男宛書信の引用 28-29頁

1911年2月6日

平出修との交流

つね日頃好みて言ひし革命の語をつつしみて秋に入れりけり

46頁

わが友は、古びたる鞄をあけて、

ほの暗き蝋燭の火影の散らぼへる床に、

いろいろの本を取り出したり。

そは皆この国にて禁じられたるものなりき。

やがて、わが友は一葉の写真を探しあてて、

「これなり」とわが手に置くや、

静かにまた窓に凭(よ)りて口笛を吹き出したり。

そは美しくとにもあらぬ若き女の写真なりき。

52頁

<墓碑銘>

われは常にかれを尊敬せりき

しかして今も猶尊敬す──かの郊外の墓地の栗の木の下に

かれを葬りて、すでにふた月を経たれど。

実に、われらの会合の席に彼を見ずなりてより

すでにふた月は過ぎ去りたり。

かれは議論家にてはなかりしど

なくてかなはぬ一人なりしが。

或る時、彼の語りけるは

「同志よ、われの無言をとがむることなかれ。

われは議論すること能はず

されど、我には何時にても起つことを得る準備あり。」

「かれの眼は常に論者の怯懦を叱責す。」

同志の一人はかくかれを評しき。

然り、われもまた度度しかく感じたりき。

しかして、今や再びその眼より正義の叱責をうくることなし。

かれは労働者──一個の機械職工なりき。

かれは常に熱心に、且つ快活に働き

暇あれば同志と語り、またよく読書したり。

かれは煙草も酒も用ゐざりき。

かれの真摯にして不屈、且つ思慮深き性格は

かのジュラの山地のバクウニンが友を忍ばしめたり。

かれは烈しき熱に冒されて、病の床に横はりつつ

なほよく死にいたるまで譫言を口にせざりき。

「今日は五月一日なり、われらの日なり。」

これかれのわれに遺したる最後の言葉なり。

この日の朝(あした)、われはかれの病を見舞ひ

その日の夕(ゆふべ)。かれは遂に永き眠りに入れり。

ああ、かの広き額と、鉄槌のごとき腕と

しかして、また、かの生を恐れざりしごとく

死を恐れざりし、常に直視する眼と

眼(まなこ)つぶれば今も猶わが前にあり。

彼の遺骸は、一個の唯物論者として

かの栗の木の下に葬られたり。

われら同志の撰びたる墓碑銘は左の如し

「われには何時にても起つことを得る準備あり。」

1911年6月16日の作

■■メモ

吉田孤羊『石川啄木と大逆事件』

「啄木日記に現われた大逆事件」(昭和24年1月、3月『東北文庫』初出)

79頁

6

 ここには、当時アメリカの反響がどんなふうであったかを知るため『朝日評論』(昭和25年8月号)に紹介された「世界の眼に大逆事件はどう映ったか」からの若干の抜き書きを許さしていただく。

★★註 Kameda 初出が「昭和」24年のテキストであるがテキスト収載の『朝日評論』は「昭和」25年刊と記してある。どちらかが誤記。

引用は2頁余り

「米国アナキストは、エマ・ゴールドマン女史を先頭に、11月、左の如は抗議文を、内田大使につきつけた。(11月28日「ニューヨーク・コール」紙)

反響、ニュージャージー州ピーターソン市の労働者を始め

ボストン「ウーマンズ・ジャーナル」主筆ブラックウェル嬢、セントルイスの「ミラー紙」などはカンカンガクガクの日本攻撃の筆陣を張り、有名な平和主義者ミード夫人は、この事件を契機に日本の死刑廃止運動を起そうとまでした。特に22日夜ニューヨークの婦人労働組合連盟で開かれたゴールドマンらの演説会は盛会であった。

 越えて11月28日、ニューヨークのアナキスト機関紙「ニューヨーク・コール」は、アピール発表以後の同志の活動を報告し、「手遅れにならぬ前に抗議せよ」と叫んだ。12月にはいるや「幸徳を救え!」の声はますます大きくなり、日本大使館及び領事館に送られた抗議文、抗議電報は矢の如く、それも最初はニューヨーク市付近のものが多かったが、その後は全米各州より送られ、…また抗議者の顔触れも、アナキストや労働者のみならず、宣教師、大学教授等の知識階級も参加し、……

ジャック・ロンドンの抗議文

ブリュッセルの第二インターナショナル本部では加盟17ヶ国の社会党に幸徳救助運動を訴え、その第一線に米国社会党を推した。集会はバンクーバー(12月11日)、ニューヨーク(12日)、サンフランシスコ、ロサンゼルス、シアトル、オークランド、ポートランド等で続々開かれ、…なかんずく西海岸の日本人の運動が目覚しく、I.W.W.と握手して日本政府に対し、もし幸徳の死刑を実行するならば「何ごとかを決行す」という情勢を示した。これらの抗議運動中最も人目を引いたのは12日のニューヨークの集会で、ゴールドマンは「桂総理、我々はここにニューヨークの自由主義者として大集会を催し、幸徳及びその同志に対し野蛮にも通過せしめた判決に対し厳重抗議する」という電文を読み上げ、日本同志救済の寄付金を集めたが、当夜及び各所合計八百ドル集まったのを日本へ送った。

 翌1911年1月18日、幸徳らへの死刑判決があり、24日処刑の報が来たるや、随所に日本政府攻撃の演説会が開かれ、サンフランシスコの日本社会主義者はジャック・ロンドンと協議して25日、幸徳らのため通夜を営み、1月24日を日本革命記念日とする宣言を発した。

宣言の引用

続いて29日、ニューヨーク、ウェブスター・ホールにアナキスト大会が開かれ、国際革命運動をもって日本政府に復讐すること、幸徳らの意志をついでその計画を遂行する趣旨を決議し、…一千人以上の群集が領事館にデモを行い、警官隊と衝突した。

カナダ、コロンビア州での社会党議員が州議会への「幸徳助命決議案」を上程しようとするが、矢田領事が阻止工作をする。 

『石川啄木全集』筑摩書房1980年刊/第四巻に関するメモ 

石川啄木


『石川啄木全集』    筑摩書房 1980年刊 第四巻に関するメモ 2004.4.28開始


1頁 42行×26字 「大逆事件」関連テキスト

★「所謂今度の事」

解題

『文学』1957年10月号に初めて発表

発見の経過 

1957年7月20日付「朝日新聞」に秘められた啄木の社会時評

林中の鳥という匿名で書き朝日に掲載依頼、実現しなかった

 (一)

 二三日前の事である。途で乾を覚えてとあるビイヤホオルに入ると、窓側の小さな卓を囲んで語っている三人連の紳士が有った。私が入って行くと三人は等しく口を噤んで顔を上げた。見知らぬ人達で有る。私は私の勝手な場所を見付けて、煙草に火を点け、口を潤し、そして新聞を取上げた。外に相客といふものは無かった。

 やがて彼等は復語りだした。それは「今度の事」に就いてゞ有った。今度の事の何たるかは固り私の知らぬ所、又知らうとする気も初めは無かった。すると、不図手にしている夕刊の或一処に停まった儘、私の眼は動かなくなった。「今度の事は然し警察で早く探知したから可かったさ。焼討とか赤旗位なら魔だ可いが、彼様(あん)な事を実行されちゃそれこそ物騒極まるからねえ。」……

 …彼の三人の紳士をして、無政府主義といふ言葉を口にするを躊躇して唯「今度の事」と言はしめた、それも亦恐らくは此日本人の特殊なる性情の一つでなければならなかった。

 (二)

 ……

其の一つは往年の赤旗事件で有る。帝都の中央に白昼不穏の文字を染めた紅色の旗を翻して。警吏の為に捕われた者の中には、数名の年若き婦人も有った。其婦人等──日本人の理想に従えば、穏しく、しとやかに、万に控え目で有るべき筈の婦人等は、厳かなる法廷に立つに及んで、何の臆する所なく面を揚げて、「我は無政府主義者なり。」と言った。それを伝え聞いた国民の多数は、目を丸くして驚いた。

 (三)

 さうして第二は言ふまでもなく今度の事で有る。

 今度の事とは言ふものゝ、実は我々は其事件の内容を何れだけも知ってるのでは無い。秋水幸徳伝次郎といふ一著述家を首領とする無政府主義者の一団が、信州の山中に於て密かに爆裂弾を製造している事が発覚して、…

 (四)

 欧羅巴に於ける無政府主義の発達及び其運動に多少注意を払ふ者の、先づ最初に気の付く事が二つ有る。一つは無政府主義者と言はるゝ者の今日迄に為した行為は凡て過激、極端、兇暴で有るに拘はらず、其理論に於ては、祖述者の何人たると、集産的たると、個人的たると共産的たるとを問はず、殆んど何等の危険要素を含んでいない事で有る(……)。も一つは、其等無政府主義者の言論、行為の温和、過激の度が、不思議にも地理的分布の関係を保っている事で有る。──これは無政府主義者の中に、クロポトキンやレクラスの様な有名な地理学者が有るからといふ洒落ではない。

 (五)

 ……

 第一の関係は、我々がスチルネル、プルウドン、クロポトキン三者の無政府主義の相違を考へる時に、直ぐ気の付く所で有る。蓋しスチルネルの所説の哲学的個人主義的なる、プルウドンの理論の頗る鋭敏な直感的傾向を有して、而して時に感情に趨らんとする、及びクロポトキンの主張の特に道義的な色彩を有する、それらは皆、彼等の各の属する国民──独逸人、仏蘭西人、露西亜人──といふ広漠たる背景を考ふることなしには、我々の正しく理解する能はざる所で有る。

 そして第二の関係──其国の政治的、社会的状態と無政府主義との関係は、第一の関係よりも猶一層明白である。

             [明治四十三年六月~七月稿]

★無題

「幸徳等所謂無政府共産主義者の公判開始は近く四五日の後に迫り来れり。

解題

未発表、署名なし、1910年12月5日前後の作

★「日本無政府主義者陰謀事件経過及び附帯現象」全集303頁

(啄木のコメントをさらに要約)

1910年6月2日

本件の犯罪、記事差止命令を受ける

6月3日 

本件の犯罪に関する記事初めて諸新聞に出づ。

6月5日

初めて本件犯罪の種類、性質に関する簡短なる記事が出で、

6月8日

大石関連 東京朝日新聞は、大石を初め同人甥西村伊作、牧師沖野岩三郎外五名家宅捜索を受け、…

6月13日

宮下太吉の姉妹に関する記事

6月21日

「無政府主義者の全滅」

本件は最初社会主義者の陰謀と称せられ

8月4日

文部省訓令、全国図書館に於て社会主義に関する書籍を閲覧せしむる事を厳禁したり

8月29日

韓国併合詔書の煥発と同時に

9月6日

社会主義書類五種発売禁止、残本差押さえ

9月19日

●社会主義者の検挙

神奈川県警、田中佐市、金子新太郎、未決監収容

大和田忠太郎、高畑巳三郎、拘引

吉田只次、加藤時次郎、家宅捜索のみ

9月23日

●社会主義者の取調

●京都の社会主義者狩

着手したる様子あり

9月24日

紐育電報

●日本社会党論評

21,22日の諸新聞

●堺、大杉等の転監、

22日夜8時東京監獄より…

10月5日

●社会主義者の疲弊

守田有秋、福田武三郎、昨4日、自宅より拘引

守田は一時間余りの訊問にて放還

11月8日

●社会主義公判

11月9日

社会主義者の氏名(註 間違いあり)

11月10日

●無政府主義者

公判開始決定

大審院に付すべきものと決定す

「決定書」

▲大陰謀の動機

▲刑法73条の罪

▲公判と弁護人

▲桑港に於ける幸徳

▲被告中の紅一点

▲獄裡の被告

▲一味徒党の面々

次の一章は…外務省が在外公館に送付した資料

「公判公開禁止」

(明治44年1月稿)

解題

日記風の感想録、新聞記事スクラップ、若干の印象を記す、これを綴じ合わせて一冊の分厚いノートのかたちをとっている

★郁雨に与ふ 在大学病院

註 死刑の夢の記述

1911年2月、3月 『函館日日新聞』

★小説「墓場」…

★日露戦争論(トルストイ)

★『A LETTER FROM PRISON』

‘V'NARODO' SERIES

註<全体のテキスト量>

80年「全集」でのテキスト量は29頁半

うち18頁半は幸徳とクロポトキンのテキスト

啄木自身のテキストは11頁

註 啄木に依る前書き 35行×26字のうち21行タイピング

「この一篇の文書は、幸徳秋水等二十六名の無政府主義者に関する特別裁判の公判進行中、事件の性質及びそれに対する自己の見解を弁明せむがために、明治四十三年十二月十八日、幸徳がその担当弁護人たる磯部四郎、花井卓蔵、今村力三郎の三氏に獄中から寄せたものである。初めから終わりまで全く秘密の裡に審理され、さうして遂に予期の如き(予期! 然り。帝国外務省さへ既に判決以前に於て、彼等の有罪を予断したる言辞を含む裁判手続説明書を、在外外交家及び国内外字新聞社に配付していたのである)判決を下されたかの事件──あらゆる意味に於いて重大なる事件──の真相を暗示するものは、今や実にただこの零砕なる一篇の陳弁書あるのみである。これの最初の写しは、彼が寒気骨に徹する監房にこれを書いてから十八日目、即ち彼にとって獄中に迎へた最初の新年、さうしてその生涯の最後の新年であった明治四十四年一月四日の夜、或る便宜の下に予自らひそかに写し取って置いたものである。予はその夜の感想を長く忘れることが出来ない。…

文中の句読は謄写の際に予の勝手に施したもの、又或る数箇所に於て、一見明白なる書違ひ及び仮名づかひの誤謬は之を正して置いた。

明治四十四年五月  H, I.

註 幸徳のテキストはタイトルなしで飾罫で区分けされ始まる。全集12頁のテキスト量

註 幸徳のテキストには「EDITOR' NOTES」への注番号が付いている

「EDITOR'NOTES」

一 幸徳はこれを書いてから数日の後、その弁護人の勧めによって、この陳弁書と同一の事を彼自ら公判廷で陳述したさうである。…此事を友人にして且つ同事件の弁護人の一人であった若い法律家H──君から聞いた。

二 註 概要<無政府共産党陰謀事件>をめぐる新聞社内の「社員」のやりとり> 全集で7頁近いテキスト量

「乱臣賊子の弁護をするのは、不埒だといふ意味の脅迫的な手紙が二三の弁護士の許に届いたのは事実である。さうしてさういふ意見が無智な階級にのみでなく、所謂教育ある人士の間にさへ往々にして発見されたのも事実である。…

 三つの種類の人達が別に存在していた。その一は思想を解する人々である。…

 その二は政府当局者である。…

 その三は時代の推移について多少の理解を有つている教育ある青年であった。…予は現に帝国大学の法科の学生の間に、主としてこの事件の影響と認むべき事情の下に、一つの秘密の社会主義研究会が起ったことを知っている。また嘗て予を訪ねて来た一人の外国語学校の生徒の、学生の多くが心ひそかに幸徳に対して深い同情をもっていることを指摘し、「幸徳の死は最も有力なる伝道であった」と言ったのを聞いた。…

三 …

新聞記者も、乃至はこの事件の質問演説を試みた議員までも社会主義と無政府主義との区別すら知らず、従ってこの事件の性質を理解することの出来なかったのは、笑ふべくまた悲しむべきことであった。予が其処に於いてひそかに読むを得たこの事件の予審決定書にさへ、この悲しむべき無智は充分に表はされていた。日本の予審判事の見方に従へば、社会主義には由来硬軟の二派あつて、即ち暴力主義、暗殺主義なのである。

四 

註 <一頁余り、啄木による無政府主義と暗殺主義の生理、クロポトキン自伝の英文引用> 英文テキストは6頁半の分量

本文一部↓

幸徳が此処に無政府主義と暗殺主義とを混同する誤解に対して極力弁明したといふことは、極めて意味あることである。

註 四名の一致したテロリストと内山愚童のことを述べる

本文

さうして幸徳及び他の被告の罪案は、ただこの陳弁書の後の章に明白に書いてある通りの一時的東京市占領の計画をした<★註 幸徳は「陳弁書」でも「訊問調書」でも触れていない、啄木が、幸徳の巴里コミューンの話しと混同しているのではないか>といふだけの事で、しかもそれが単に話し合っただけ──意志の発動だけにとどまって、未だ予備行為に入っていないから、厳正の裁判では無論無罪になるべき性質のものであったに拘らず、政府及びその命を受けたる裁判官は、極力以上相連絡なき三箇の罪案を打って一丸となし、以て国内に於ける無政府主義を一挙に撲滅するの機会を作らんと努力し、しかして遂に無法にもそれに成功したのである。予はこの事をこの事件に関する一切の智識から判断して正確であると信じている。されば幸徳は、主義のためにも、多数青年被告及び自己のためにも、又歴史の正確を期するためにも、必ずこの弁明をなさねばならなかったのである。

 一切の暴力を否認する無政府主義者の中には往々にしてテロリズムの発生するのは何故であるかといふ問ひに対して、クロポトキンは大要左の如く答へているさうである。

★註 クロポトキンの翻訳テキストを引用 8行

★註 さらに英文の自伝から露西亜青年の革命闘争の部分を引用

五 ★註<相互扶助などクロポトキンの論文の説明> テキスト量、1頁半

本文↓部分、略あり

相互扶助といふ言葉は殆どクロポトキンの無政府主義の標語になっている。彼はその哲学を説くに当って常に科学的方法をとった。更に人間界に及ぼした。人類が苦しんでいるのは、全く現在の諸組織、諸制度の悪いために外ならぬのである。権力といふものを是認した結果に外ならぬのである。

 この根底を出発点としたクロポトキン(幸徳等の奉じたる)は、その当然の結果として、今日の諸制度、諸組織を否認すると同時に、また今日の社会主義にも反対せざるを得なかった。政治的には社会全体の権力といふものを承認し、経済的には労働の時間、種類、優劣等によってその社会的分配に或る差等を承認しようとする集産的社会主義の思想は、彼の論理から見れば、今日の経済的不平等を来した原因を更に名前を変へただけで継続するものに過ぎなかった。

 編輯者の現在無政府主義者に関して有する知識は頗る貧弱である。

1911年5月稿

全集解題

啄木没後にその存在が明らかになったもので、ノート146頁にわたって記載

全体は「A LETTER FROM PRISON」「EDITOR' NOTES」の二部

ノートの最初に解説した文書を据える

★平信

「四 

註 クロポトキンの冊子のこと 露西亜の牢獄」

1911年11月3日起稿

全集解題

生前未発表の原稿、公開的手紙

第六巻

★明治四十四年当用日記

1月3日

平出君の処で無政府主義者の特別裁判に関する…自分が裁判長だったら

1月4日

夜、幸徳の陳弁書を写す

1月5日

幸徳の陳弁書を写し了る。

1月6日

借りて来た書類を郵便で平出君に返した。

夕飯の時は父と社会主義について語った。

1月10日

社に行くと谷静湖から約束の冊子が届いていた。

在米岩佐作太郎なる人から贈って来たといふ革命叢書第一篇

クロポトキン著「青年に訴ふ」の一書である

ク翁の力ある筆は今更のやうに頭にひゞいた。

1月11日

社で渋川氏に岩佐等の密輸入の話をした。

市俄(高)古の万国労働者の代表者から社に送って来た幸徳事件の抗議書──それは社では新聞に出さないといふので予が持って来た──を見せた。

1月12日

午前に丸谷君が一寸来た。前夜貸した「青年に訴ふ」を帰しに来たのである。

1月14日

丸谷君が貸しておいた幸徳の陳弁書を持って遊びに来た。

1月16日

我々の雑誌を文学に於ける社会運動といふ性質のものにしようといふ事に二人の意見が合した

1月18日

今日は幸徳らの特別裁判宣告の日であった。社に出た。

二時半過ぎた頃 「二人だけ生きる生きる」「あとは皆死刑だ」

1月19日

朝に枕の上で国民新聞を読んでいたら俄かに涙が出た。「畜生! 駄目だ!」さういふ言葉も我知らず口に出た。

1月20日

昨夜大命によって二十四名の死刑囚中十二名だけ無期懲役に減刑されたさうである。

1月23日

休み。

幸徳事件関係記録の整理に一日を費やす。

1月24日

社へ行ってすぐ、「今朝から死刑をやってる」と聞いた。

夜、幸徳事件の経過を書き記すために十二時まで働いた。これは後々への記念のためである。

1月25日

昨日の死刑囚死骸引渡し、それから落合の火葬場の事が新聞に載った。

かへりに平出君へよつて幸徳、管野、大石等の獄中の手紙を借りた。

明日裁判所へかへすといふ一件書類を一日延して、明晩行って見る約束にして帰った。

1月26日

特別裁判一件書類をよんだ。七千枚十七冊、

十二時までかゝって漸く初二冊とそれから管野すがの分だけ方々拾ひよみした。

頭の中を底から掻き乱されたやうな気持ちで帰った。

1月29日

外国語学校の阿部康蔵君が来た。無政府党のことについて語って、「学生には同情してる者の方が多いやうだ」と語っていた。

2月10日

函館の新聞には無政府党の死刑囚の一人が死刑前に巻煙草を三本のんで、「これでいゝ」と言ったことが何からか転載されてあった。煙草!

2月23日

土岐君が来て十二時頃まで話して行った。クロポトキンの自伝を持って来てかしてくれた。

2月24日

クロポトキンを読み始めた。

4月20日

丸谷君と無政府主義の事に関して議論をした。

4月22日

毎日平民新聞やその後のあの派の出版物をしらべている。

5月12日

クロポトキンの自伝を、拘引された処から脱獄して英吉利へ行ったところまで読んだ。妙にいろいろのことが考へられた。

6月5日

北輝次郎の「純正社会主義の哲学」を読んだ。

7月1日

創作に「はてしなき議論の後」(詩)新日本…載る

7月11日

夜、森田草平君来り、幸徳のことを語り十一時半に至る

11月12日

丸谷君が来た。彼は今では、社会主義は到底実行されないと信ずると言った。

11月17日

先月からかゝって写していたクロポトキンの「ロシヤの恐怖」を写してしまったので、製本した。

★明治四十四年当用日記補遺

前年中重要記事

六月──幸徳秋水等陰謀事件発覚し、予の思想に一大変革ありたり。これよりボツボツ社会主義に関する書籍雑誌を聚む。

★千九百十二年日記

1月30日

帰りがけに或本屋からクロポトキンの『ロシア文学』を二円五十銭で買った。

「時代閉塞の現状」の冒頭の方でも確か「家父長制」と「婦人への抑圧」に関して、触れていましたが、「所謂今度の事」で1908年の「赤旗事件」の被告とされた婦人たちのことに触れています。

 四人の女性のうち二人は無罪、一人は執行猶予、一人は実刑から控訴して執行猶予となります。それでも三ヶ月前後は獄舎に囚われるわけです。管野須賀子が無罪にならなければ、大逆事件に至ったかどうか、また別の過酷な弾圧は生起

「所謂今度の事」(1910年6月から7月稿)の二章の部分

 …其の一つは往年の赤旗事件で有る。帝都の中央に白昼不穏の文字を染めた紅色の旗を翻して。警吏の為に捕われた者の中に

は、数名の年若き婦人も有った。其婦人等──日本人の理想に従えば、穏しく、しとやかに、万に控え目で有るべき筈の婦人等は、厳かなる法廷に立つに及んで、何の臆する所なく面を揚げて、「我は無政府主義者なり。」と言った。それを伝え聞いた国民の多数は、目を丸くして驚いた。…… 

遺体引取記事

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石川啄木「社会的理想は無政府主義」

パンの略取

1911年 

1.3 友人の平出修弁護士と会う、幸徳の弁護士宛「意見書」を借用する、翌々日までに写す

1月4日

夜、幸徳の陳弁書を写す

1月5日

幸徳の陳弁書を写し了る。

1月6日

借りて来た書類を郵便で平出君に返した。

夕飯の時は父と社会主義について語った。

1.9 瀬川深宛「僕は必ず現在の社会組織経済組織を破壊しなければならぬと信じている、これ僕の空論ではなくて、過去数年間の実生活から得た結論である、僕は他日僕の所信の上に立って多少の活動をしたいと思ふ、僕は長い間自分を社会主義者と呼ぶことを躊躇していたが、今ではもう躊躇しない、無論社会主義は最後の理想ではない、人類の社会的理想の結局は無政府主義の外にない(君、日本人はこの主義の何たるかを知らずに唯その名を恐れている、僕はクロポトキンの著書をよんでビックリしたが、これほど大きい、深い、そして確実にして且つ必要な哲学は外にない、無政府主義は決して暴力主義でない、今度の陰謀事件は政府の圧迫の結果だ、…)然し無政府主義はどこまでも最後の理想だ、実際家は先づ社会主義者、若しくは国家社会主義者でなくてはならぬ、…僕は今の一切の旧思想、旧制度に不満だ、…」

1.10 アメリカで秘密出版され日本国内に送付されたクロポトキン著の小冊子『青年に訴ふ』の寄贈を歌人谷静湖より受け愛読する。

1月10日

社に行くと谷静湖から約束の冊子が届いていた。

在米岩佐作太郎なる人から贈って来たといふ革命叢書第一篇

クロポトキン著「青年に訴ふ」の一書である

ク翁の力ある筆は今更のやうに頭にひゞいた。

1月11日

社で渋川氏に岩佐等の密輸入の話をした。

市俄(高)古の万国労働者の代表者から社に送って来た幸徳事件の抗議書──それは社では新聞に出さないといふので予が持って来た──を見せた。

1月12日

午前に丸谷君が一寸来た。前夜貸した「青年に訴ふ」を帰しに来たのである。

1.13 土岐哀果と会う、雑誌『樹木と果実』刊行を計画

1月14日

丸谷君が貸しておいた幸徳の陳弁書を持って遊びに来た。

1月16日

我々の雑誌を文学に於ける社会運動といふ性質のものにしようといふ事に二人の意見が合した

1月18日

今日は幸徳らの特別裁判宣告の日であった。社に出た。

二時半過ぎた頃 「二人だけ生きる生きる」「あとは皆死刑だ」

1.18 大審院、幸徳と外23名に死刑判決

1月19日

朝に枕の上で国民新聞を読んでいたら俄かに涙が出た。「畜生! 駄目だ!」さういふ言葉も我知らず口に出た。

1月20日

昨夜大命によって二十四名の死刑囚中十二名だけ無期懲役に減刑されたさうである。

1.22 平出修宛「僕はあの日の夕方位心に疲労を感じた事はありませんでした。さうして翌日の国民新聞の社説を床の中で読んだ時には、思はず知らず《日本は駄目だ》と叫びました。さうして不思議にも涙が出ました。僕は決して宮下やすがの企て

を賛成するものでありません。然し《次の時代》といふものについての一切の思索を禁じようとする帯剣政治家の圧制には、何と思ひかへしても此儘に置くことは出来ないやうに思ひました」

1月23日

休み。

幸徳事件関係記録の整理に一日を費やす。

1月24日

社へ行ってすぐ、「今朝から死刑をやってる」と聞いた。

夜、幸徳事件の経過を書き記すために十二時まで働いた。これは後々への記念のためである。

1.24 1月23日に啄木は事件の関係書類を整理しはじめ「日本無政府主義者陰謀事件経過及び附帯現象」としてまとめ終わったのは死刑執行の当日であった。

1月25日

昨日の死刑囚死骸引渡し、それから落合の火葬場の事が新聞に載った。

かへりに平出君へよつて幸徳、管野、大石等の獄中の手紙を借りた。

明日裁判所へかへすといふ一件書類を一日延して、明晩行って見る約束にして帰った。

1月26日

特別裁判一件書類をよんだ。七千枚十七冊、

十二時までかゝって漸く初二冊とそれから管野すがの分だけ方々拾ひよみした。

頭の中を底から掻き乱されたやうな気持ちで帰った。

1.26 平出の自宅で大審院公判記録の初めの二冊、管野須賀子に関する記録を読む

1月29日

外国語学校の阿部康蔵君が来た。無政府党のことについて語って、「学生には同情してる者の方が多いやうだ」と語っていた。

参考

『A LETTER FROM PRISON』‘V'NARODO' SERIES 

註<全体のテキスト量>1980年「全集」でのテキスト量は29頁半

うち18頁半は幸徳とクロポトキンのテキスト  啄木自身のテキストは11頁

註 啄木に依る前書き 35行×26字のうち21行タイピング
 

「この一篇の文書は、幸徳秋水等二十六名の無政府主義者に関する特別裁判の公判進行中、事件の性質及びそれに対する自己の見解を弁明せむがために、明治四十三年十二月十八日、幸徳がその担当弁護人たる磯部四郎、花井卓蔵、今村力三郎の三氏に獄中から寄せたものである。初めから終わりまで全く秘密の裡に審理され、さうして遂に予期の如き(予期! 然り。帝国外務省さへ既に判決以前に於て、彼等の有罪を予断したる言辞を含む裁判手続説明書を、在外外交家及び国内外字新聞社に配付していたのである)判決を下されたかの事件──あらゆる意味に於いて重大なる事件──の真相を暗示するものは、今や実にただこの零砕なる一篇の陳弁書あるのみである。これの最初の写しは、彼が寒気骨に徹する監房にこれを書いてから十八日目、即ち彼にとって獄中に迎へた最初の新年、さうしてその生涯の最後の新年であった明治四十四年一月四日の夜、或る便宜の下に予自らひそかに写し取って置いたものである。予はその夜の感想を長く忘れることが出来ない。…

文中の句読は謄写の際に予の勝手に施したもの、又或る数箇所に於て、一見明白なる書違ひ及び仮名づかひの誤謬は之を正して置いた。

明治四十四年五月  H, I. 

 

判決理由/抄


判決

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宮下太吉

近世無政府主義 のコピー
<聴取書及調書の杜撰>

第一、検事の聴取書なるものは何と書いてあるか知れたものではありません…大抵、検事がこうであろうと言った言葉が私の申し立てとして記されてあるのです。…私は検事の聴取書なるものは殆ど検事の曲筆舞文、牽強付会で出来上がっているだろうと察します。…

幸徳秋水「陳弁書」 より

大逆罪弾圧とフレームアップ

 明治政府を打倒する1910年の無政府主義者による革命は、幸徳秋水を理論的、精神的支柱とし、管野すが、宮下太吉、新村忠雄、古河力作を闘争主体とし、当時の天皇ムツヒトを爆裂弾のターゲットにし開始せんとする構想であった。 
  だが、そこへ達する遙か前、実行に向けた意志も希薄になりつつある状況のなか革命の武器としての爆裂弾製造のプロセスが国家権力の治安警察に察知され、1910年5月宮下太吉らの逮捕に始まり、彼女、彼らの活動、交流から多くの社会主義に弾圧が拡大した。  

 構想のなかで具体化していたのは、爆裂弾製造のための材料集め、(試爆は一回行なわれているが完成品は存在していなかった)ムツヒトの乗る馬車へ爆裂弾を投擲する順番だけであった。

 ゼネスト、人々の決起、治安権力との対峙、……武装蜂起から権力奪取なのか?当事者が直接残した文章はない。 
  当時、幸徳秋水自身は労働者によるゼネラル・ストライキから社会革命を目指すという直接行動を主張し始めていた。しかし、赤旗事件による同志への実刑弾圧、『麺麭の略取』を秘密出版せざるを得ない状況、『自由思想』発行に対する国家権力による妨害、と活動を封じ込められ、管野すが、新村忠雄による武装闘争から革命を目指すという立場を容認しつつあった。 

  大審院がフレームアップした首謀格、幸徳秋水(伝次郎)の「大逆」の意図を『判決理由』から抜粋すると以下の物語となり「11月謀議」となる。 

「11月19日東京府北豊多摩郡巣鴨町伝次郎(幸徳)宅に於て、伝次郎が誠之助及び森近運平に対し赤旗事件連累者の出獄を待ち、決死の士数十人を募りて、富豪を劫掠(こうりゃく・財を奪い)し貧民に賑恤(しんじゅつ・賑し)諸官街を焼燬し、当路の顕官を殺し、且つ進んで宮城に迫りて、大逆罪を犯す意あることを説き、予め決死の士を募らんことを託し、運平(森近)、誠之助(大石)は 之に同意したり………」「11月卯一太(松尾)もまた上京して伝次郎を訪問し、伝次郎より赤旗事件連累者の出獄を待ち、決死の士数十人を募り、富豪の財を奪い貧民に賑し、諸官街を焼燬し、当路の顕官を殺し、進んで宮城に逼りて大逆罪を犯さんと意志のあることを聴き、これに同意して決死の士を養成すべきことを約し……」 

 このストーリーは幸徳がパリ・コミューンや1905年のロシア革命での労働者の決起を雑談で同志に話したのが、予審でフレーム・アップされ、さらに大石、松尾が新宮、熊本に戻り同志に東京での「幸徳の革命をめぐる雑談」として伝えたことがさらなるフレームアップにつながったのである。

 大審院検事局の公訴事実が記録としては「隠された」ままであるが、平出弁護人が『特別法廷覚書』で骨子を記述している。その立会い検事平沼騏一郎の論告(1910年12月25日)は1908年11月、巣鴨平民社での、それぞれ別の日での大石誠之助、松尾卯一太と幸徳との話し合いを上記の陰謀とし「本件の発端なり」と位置づけ、「第一 東京・信州方面(幸徳直轄)、第二 大石の紀州陰謀、第三 松尾の九州、第四 内山の遊説(大阪・神戸)」と広域化、各地の社会主義者へ「大逆罪」弾圧を拡大した内容である。

 それは明科での爆裂弾事件から大逆罪へ結びつけ、更なる拡大に11月謀議を位置づけ、内山愚童を無理矢理組み込むための皇太子「暗殺」計画なるものをフレームアップしたものである。全ての環に幸徳を存在させ内山を補強人物とし、大石、松尾を軸とし大阪、神戸、和歌山、熊本の社会主義者へと繋げた。(神奈川、名古屋の同志も一時はつなげられようとした)

 坂本清馬は幸徳から距離をおき、森近は社会主義運動から離れ、奥宮は社会主義とは無縁でありながら1908,9年にかけての官憲の虚構の物語に登場させられた。

 弾圧の発端は長野県明科在住、宮下太吉の爆裂弾製造を契機として始まった。1910年5月25日、爆発物取締罰則違反容疑で逮捕され、新村忠雄、兄善兵衛は同県屋代町の自宅から連行。5月29日宮下が爆裂弾の使用目的「天皇暗殺計画」を自供し検事の「聞取り書」には共謀者として管野すが、新村忠雄、古河力作の名が出される。5月31日、刑法73条(いわゆる大逆罪)該当事件として、検事総長に書類が送致され幸徳、新村、古河力作、管野すが、宮下、新村善兵衛、新田融の7名が大審院に予審請求、開始決定。6月1日、幸徳が湯河原で逮捕される。出版法違反で入獄中の管野すがは6月2日に調べ始められた。(新村善兵衛、新田は大審院判決で爆発物取締罰則のみ認定、「大逆罪」を承知していたという調書は信用できないとされた)

 大石の新宮関連は7月6日武富検事が、小林検事正、高野検事と協議し(大石は既に6月5日起訴決定され東京に送られていた)高木顕明、峰尾説堂、崎久保誠一は7月7日、成石勘三郎を7月8日、成石平四郎を7月14日に起訴決定。やはり武富が7月29日から取調べに入った熊本関連は新美卯一郎、飛松与次郎、佐々木道元を松尾と同じく8月3日に起訴決定。

 架空の「11月謀議」時に巣鴨平民社に同居していた森近運平は岡山に戻っていたが6月15日、巣鴨平民社に住込み、その後幸徳から離れた坂本清馬は8月9日起訴決定されている。

 さらに1910年8月21日、大阪にて小林検事正、武富、小山検事は内山愚童の皇太子暗殺計画(「オヤジをやめて、セガレをやれば胆をつぶして死ぬだろう」なる放言)なる二つめの「大逆罪」フレームアップを組み込み、内山の歴訪した大阪から武田九平、岡本顕一郎、三浦安太郎は8月28日に起訴決定。神戸から神戸平民倶楽部の岡林寅松、小松丑治を9月28日に起訴決定、内山愚童を10月18日に起訴決定した。判決では「愚童、寅松、丑冶の行為は各同条の規定中皇太子に対し危害を加えんとしたる者は死刑に処すとあるに該当し、被告平四郎。安太郎の行為は各同条規定中天皇に対し危害を加えんとしたる罪と、皇太子に対し危害を加えんとしたる罪の刑に処すべく……」とされている。

 奥宮健之は自由民権運動の世代でかつての自由党壮士。無政府主義、社会主義と無縁の立場であった。幸徳とは同郷の縁で交流があり、1909年10月、昔の仲間から爆裂弾の製法情報を入手し幸徳にそれを伝えたという件で巻き込まれた。(予審判事意見書では「伝次郎一派を緩和せしめんため…懐柔策を協議」とあり政治ブローカーとの間にたち金銭利益を得ようとした気配もあるが成功していない)

 実際に、この国で、国家権力を転覆させることが同志の間で密に検討されたのであろうか。国家権力、大審院の杜撰なシナリオではあるが、現実に自分たちの体制、権力が打倒させられる恐怖感の一端があらわれている。 
  刑法76条(大逆罪)により26名が公判にかけられ、一般傍聴禁止、連日の開廷により、大審院のみの一審制という、近代史上、最大の暗黒裁判により開始から一カ月で24名への死刑判決。 


 国際的な無政府主義者、社会主義者の抗議運動の拡がりを恐れ、判決から10日も経たずして、1911年1月24日、25日と12名が絞首され、革命への精神と肉体を抹殺された。
  国家権力、時の権力者、山県有朋、ムツヒトらが人々の間に無政府主義思想が拡がることを恐れ、無政府主義者一掃を図った大弾圧であり、「司法」という名の「合法」性を装った国家権力によるテロリズムそのものである。後に「大逆事件」といわれる。 

  これまでは弾圧のフレームアップの側面が強調され、彼女、彼等が無政府主義者として革命主体として何を考え、どのような行為があったかは十全に検証され得ていないのではないか。 
(神崎清の『革命伝説』が個々の被弾圧者の実像に踏みこんだうえで「大逆事件」の全体構造を物語っている。本稿も1次資料が掲載されている文献が入手できない場合は、『革命伝説』芳賀書店版によっている。) 
 

 弾圧の実態、裁判のプロセスが公然と語ることが可能になったのは1945年以降である。しかしながら無政府主義の立場で言及している文章は少ない。新たに調べようとしても、近年では一般的な文献も入手し難い。被弾圧者個々の研究書を読み通しても弾圧全体は解かり難い。 
  わかり難さは何に起因しているのか。実行の意志と計画を知っていたメンバーと周辺の同志との繋がりに関する資料が少ない、被弾圧者の公判廷、獄中における一次資料が1945年まで司法省により隠匿されていて解明が始まったのが、判決、処刑より30年余りの後で周辺の証言が不足している。 
「再審請求」が焦点化していた時期にフレームアップの側面が強調され過ぎたこと、研究者の思想的なスタンスから無政府主義思想に距離を置いたり、無知から生じて正確でない記述があること。直接の被弾圧者が26名という大弾圧が個々の生き方を描きだすのに膨大な労力を必要とする。これらが要因であろう。 

  また幸徳秋水はスペイン政府による無政府主義者フェレル処刑への抗議記事を執筆している。伊藤博文への報復を果たした安重根の肖像写真のポストカードには秋水の漢詩が刷りこまれていた。さらに秋水はサンフランシスコでの無政府主義者との交流を行なっている。1900年代は国際的革命運動の連帯は有り得たのか。 
  まずは宮下太吉が闘いに踏み出す状況から始めたい。次に幸徳秋水が翻訳したクロポトキン著『麺麭の略取』の出版の活動に焦点を当てたい。 
                                          

宮下太吉 
 

  熟練の機械工であった宮下太吉である。1876年生まれ。小学校を卒業し、すぐに鍛冶屋に見習いにはいった。彼は社会主義文献に触れる前から労働者が置かれている環境に疑問を持っていた。『日刊平民新聞』を入手してからさらに労働者の組織化に目覚め、自分の職場に組合を結成し「亀崎鉄工所友愛義団」と名付けた。 
  弁護人が残した大審院特別法廷覚書によると、宮下は法廷で次の様に述べている。
「煙山氏の『無政府主義』を読みし時、革命党の所為を見て日本にもこんな事をしなければ、ならぬかと思いたり」予審調書では 
「私は社会主義を読み、社会主義を実行するに当たり、皇室を如何にすべきかとの疑問を持っておりました処、1907年12月13日、森近に会ったから、日本歴史に関し皇室の事を質問したのです。 …… 」 
  森近運平から、後に早大教授となる久米邦武の『日本古代史』を見せられ、「皇室崇尊の思想は迷信である」と学んだのである。 
  1908年1月には片山潜の講演会も地元で主催したが片山の議会主義には納得しなかった。2月には再び森近を訪れ、秘密出版されたアナキスト、ローレルの『総同盟罷工論』を貰っている。 
  森近運平が『日本平民新聞』13号(1908 年2月5日号)に宮下の印象記を載せている。 

    『脳と手』                     森近運平 
「宮下君ら数十名の同志は、面倒臭い本こそ読まぬ。金鎚と鉞とネジ廻しとを以て、器械を組み立てる技術を持った人である。その頭脳の明晰なる事、到底帝国大学の先生方の及び能わざる所であると感じた」 

  11月には内山愚堂から『無政府共産 入獄紀念 革命』が送付されてきた。 

『無政府共産 入獄紀念 革命』(部分) 
「人間の一番大事な、なくてはならぬ食物を作る小作人諸君。諸君はマアー、雄や先祖のむかしから、この人間の一番大事な食物を、作ることに一生懸命働いておりながら、くる年もくるとしも、足らぬたらぬで終わるとは、何たる不幸のことなるか。 ……………… 今の政府を亡ぼして、天子のなき自由国に、するということがナゼ、むほんにんの、することでなく、正義をおもんずる勇士の、することであるかというに、今の政フや親玉たる天子というのは諸君が、小学校の教師などより、ダマサレテ、おるような、神の子でも何でもないのである、今の天子の先祖は、九州のスミから出て、人殺しや、ごう盗をして、同じ泥坊なかまの、ナガスネヒコなどを亡ぼした、いわば熊ざか長範や、大え山の酒呑童子の、成功したのである、神様でも何でもないことは、スコシ考えてみれば、スグしれる。……………… 
  小作人諸君。諸君はひさしき迷信のために、国にグンタイがなければ、民百姓は生きておられんものと信じておったであろう。ナルホド、昔も今も、いざ戦争となれば、ぐんたいのない国はある国に亡ぼされてしまうにきまっておる、けれどもこれは天子だの政府だのという大泥坊があるからなのだ。 
  戦争は政府登政府とのケンカではないか、ツマリ泥坊と泥坊がナカマげんかするために、民百姓が、なんぎをするのであるから、この政府という、泥坊をなくしてしまえば、戦争というものはなくなる。戦争がなくなれば、かわい子供を兵士にださなくてもよろしいということは、スグにしれるであろう。 
  ソコデ小作米を地主へ出さないようにし、税金と子供を兵士にやらぬようにするには、政府という大泥坊をなくしてしまうが、一番はやみちであるということになる。 
  しからば、いかにしてこの正義を実行するやというに、方法はいろいろあるが、マズ小作人諸君としては、10人でも、20人でも連合して、地主に小作米をださぬこと、政府に税金と兵士をださぬことを実行したまえ。諸君がこれを実行すれば、正義は友を、ますものであるから、一村より一ぐんに及ぼし、一ぐんより一県にと、ついに日本全国より全世界に及ぼして、ココニ安楽自由なる無政府共産の理想国ができるのである。 
  何ごとも犠牲なくして、できるものではない。吾と思わん者はこの正義のために、いのちがけの、運動をせよ。(オワリ)」 

  宮下太吉は内山愚堂と面識はなかった。内山は平民社の購読者リストに基ずき、秘密出版した『無政府共産』のパンフレットをそれぞれに複数部、送付したのである。 
  宮下は、その内容に大いに共感し、たまたま11月10日に天皇ムツヒトが関西行きのため、近くの東海道線大府駅を通過するという新聞記事を読み、集まる住民に配布することを決意した。 
  神格化され絶対権力者としての天皇への批判・否定のパンフレットは所持しているだけでも「不敬罪」の取締対象である。現実に何人かが内山から送られたものを所持しているだけで弾圧され、不敬罪で起訴され5年の実刑攻撃をうけている。 
  宮下は森近運平や平民社からの影響を受け急速に社会主義の文献を読み始めていた。自分の職場の仲間にも広めようとしていたが、すぐに反応は返ってこなかった。そこへ『無政府共産』の送付である。職場の労働者以外にも、さらに多くの人々に天皇と政府の支配から脱し革命に参加することを訴えようとしたのである。 
  宮下は工場を休み、『無政府共産』を15部所持し大府駅へ向かった。配布しながら天皇神話を崩そうとしたが、人々の反応は宮下にとって満足の行くものではなかった。しかし天皇への不満を述べる者もいた。 
  1909年2月、東京への出張の帰りに、巣鴨の平民社を訪ねた。そこで幸徳秋水に初めて会い、ムツヒトの暗殺を計画していることを話している。宮下の、これらの交流、活動の一端は予審で供述調書を作られてしまい、大審院の判決理由で虚構の物語に組み込まれていく。 

『大審院判決』抜粋 

「……運平は無政府共産主義を奉じ、大阪に在りて、大阪平民新聞、或いは日本平民新聞と称したる社会主義の新聞紙を発刊し、又定時茶話会を開き、無政府共産説を鼓吹す。  偶々、被告宮下太吉、心を同主義に傾けたるも、皇室前途の解決に付いて惑う所あり、明治40年12月13日、運平を大阪平民社に訪うて之を質す。 
  運平即ち、帝国紀元の史実、信するに足らざることを説き、自ら太吉をして、不臣の念を懐くにいたらしむ。 
  其後、太吉は内山愚堂、出版の『入獄記念 無政府共産』と題する暴慢危激の小冊子を携え、東海道大府駅に到り、行幸の歯簿を拝観する群集に頒与し、且之に対して、過激の無政府共産説を宣伝するや、衆皆、傾聴するの風あれども、言一たび皇室の尊厳を冒すや復耳を仮す者なきを見て、心に以為く、 
  帝国の革命を行んと欲すれば、先ず大逆を犯し、以て人民忠愛の信念を殺ぐに若かずと、是に於て、太吉は爆裂弾を造り、大逆罪を犯さんことを決意し。 
  明治41年11月13日、其旨を記し、且一朝、東京に事あらば直に起て、之に応ずべき旨を記したる書面を運平に送り、運平は之を伝次郎に示し、且、太吉の意志強固なることを推奨したるに、伝次郎は之を聴いて喜色あり、 ………… 」 

  宮下は神格化された天皇の存在を打破するところから社会主義思想、無政府共産主義思想に近付いていった。 
  宮下の眼には触れていなかったと思われるが、1907年の11月3日、すなわち天皇ムツヒトの誕生日に合わせて、サンフランシスコ在住の社会革名党員(幸徳が滯米中に組織化した在米日本人の党派)が『ザ・テロリズム』と題した新聞を配布した。 
  その内容が「日本皇帝睦仁君に与う」というタイトルでムツヒトへの暗殺通告そのものであった。現実に暗殺を計画したというより日本の国家権力の追求が届かない海外から、脅かしをかけたというところであろう。 
  11月3日当日にサンフランシスコの日本領事館正面玄関に貼り付けられたという。また日本国内にも送られたようである。一部が関東の社会主義者の家に残されていた。 

『日本皇帝睦仁君に与う』  (部分) 

「日本皇帝睦仁君足下。余ら無政府党、革名党暗殺主義者は今足下に一言せんと欲す。…… 
  睦仁君足下。さきに足下は足下の暴威の範囲を拡張せんがために隣邦支邦と戦えたり。近くは露国と戦えたり。この時において足下の幇間は挙国一致を説き、忠君愛国を語りて、おおいに殺戮を奨励したり。嗚呼日本の平民は支邦の平民になんらの怨恨かある。露国の平民は日本の平民になんらの怨恨かある。………… 
  戦後の足下は一等国の君子となりしにあらずや。貴族は爵位を得しにあらずや。資本家は巨万の富を得しにあらずや。しかしてみずから鉄砲をとりて戦えし平民の子は戦場の露と消え、あるいは傷けられ、あるいは捕虜となり幸いにして帰りし者は、重税を課せられ、数十億の国債を荷なえてなお飢餓と戦えつつあるにあらずや。見よ、足下および足下の周囲なる権力階級は失うところなくして、得るところ大なるを見よ。平民階級は失うところ大にして得るところ一もなきを。…………… 
  ………ここにおいて吾人は断言す。足下は吾人の敵なるを、自由の敵なるを。しかして足下が自由論者に向いて挑戦したる行動なりと。よししからば吾人にもまた吾人の覚悟あり。吾人いたずらに暴を好向ものにあらず。しかれども暴をもって圧制する時には、暴をもって反抗すべし。 
  しかり、吾人は最後の血滴をそそがんまでも、足下に反抗し、現在の秩序に逆らいて反抗すべし。遊説や扇動のごとき緩慢なる手段を止めて、すべからく暗殺を実行し、間諜者、圧制者は、すべて、その人の、いかなる位置にあるを問わず、尽くこれを謀殺すべし。 これらを単純なる紙上の空論と誤認するなかれ。暗殺主義は今や露国において最も成功しつつあり。仏国においてもまた成功したりき。………  睦仁君足下。憐なる睦仁君足下。足下の命や且夕にせまれり。爆裂弾は足下の周囲にありて、まさに破裂せんとしつつあり。さらば足下よ。

1907年11月3日  足下の誕生日 
無政府党暗殺主義者」


  内容は天皇の神格を歴史的に否定し、侵略と奴隷使役を繰り返してきた一族の末裔にすぎないこと。現在も日本人民は奴隷道徳のもとに支配されている。人間として自由を求めるのは当然である。その自由を訴える新聞、雑誌記者、労働者が投獄され、日本社会党も解散を命じられた、という主張である。 
  国家権力の中枢に位置していた山県有朋はタイミングを計り「赤旗事件」直後、天皇ムツヒトに『ザ・テロリズム』を発行した社会革命党の存在を伝え、国内の社会主義者と結びついていると語った。 
  その結果が大杉栄、堺利彦、山川均らに対する一年から二年半の禁錮、重刑攻撃につながり社会主義者の活動が封じこめられた。 
  1902年『近世無政府主義 、1903年『社会主義神髄 、1908年『麺麭の略取』の出版と社会主義、無政府主義の纏まった文献がようやく広まった時代である。それに伴って日本という国の政治体制を分析していった場合、天皇一族の存在が歴史的、国家論の視点から検証され始めたのである。 
  前出、その天皇の存在に対する歴史認識から、東大を追われた久米邦武の『日本古代史』も大きな役割を果たしている。 
  宮下は幸徳、森近らの平民社との交流、内山愚堂の『無政府共産』から天皇観の影響を受け学び、天皇の存在が労働者、小作人、戦争に駆り出される人々を苦しめている元凶だと認識したのである。 
  宮下が使用していた1908年の市販の日記帳には皇室欄が付録として付いていた。そこに宮下の書き込みが残されている。 

〈皇    室〉 寄生虫ノ集合体 革命ノ時ハ皆殺ス 
〈皇    族〉 寄生虫ノ集合体 革命ノ時ハ殺ス可者 
〈御歴 代表〉 寄生虫ノ経歴表 
〈陸軍管区表〉 社会ノ害物 
〈貨幣明細表〉 新社会ニハ不必要 
〈印 紙 税〉 新社会ニハ不必要 

  宮下の決意が率直に表現されている。陸軍管区表というのは師団の所在地のことである。反軍の立場、革命時の障害になるということで記したのであろう。 
  大府駅での『無政府共産』の配布から数ヶ月を経て1909年の2月には、天皇暗殺の決意が出始めている。自分は命を賭けて革命のための礎になろうと決意したのである。残されている資料を検討する限り、煙山専太郎の『近世無政府主義』からの影響であろうか。 
煙山専太郎は後に早大の教授になる。長男が1971年にエッセイで 
「父の立場はいうまでなくこれ(革命)を謳歌宣伝するものではなく『警世の書』であったのです。………ただ父は、この書  を上辞するに当たり、警保局?の役人から取調べをうけ、無事にパスして公刊できるようになったと申しておりました。…………」 
  と述べている。 
  煙山専太郎の思想的な立場はわからないが、「警世の書」というのは当局への対応上主張していたのかもしれない。もしくは出版時の予想に反して、無政府主義者に影響を与えたり、宮下太吉の蔵書にもあったということで、「保身」的言辞にならざるを得なかったのであろう。 
  出版当初は余り売れず、幸徳秋水が米国から帰国後、無政府主義の立場を明確にしてから購入され始めたようである。 
  その内容はナロードニキの闘争、無政府主義の理論、ヨーロッパの無政府主義運動史となっている。 
  宮下はロシア皇帝アレキサンドル二世の暗殺場面を天皇ムツヒトへのそれと重ねたのであろうか。 



宮下太吉/其の二

032


第4回予審調書 


「まず爆裂弾を作り、第一に之を天子の馬車に投げつけて、天子も我々と同じく血の出る人間であるということを示したい。自分は、その決心を為して、是よりその計画を行なうべき旨を話しました」 
1909年2月13日に巣鴨の平民社を訪ね幸徳に語っている。 
  東京に向かう直前には、岡崎の書店で、古本の『国民百科辞典』を見つけ購入。薬品の性質や、火薬の製法を調べ始めている。 
  押収された『日記』のメモによると、 
  4月13日 「平民社」にクロポトキン著、幸徳秋水訳『麺麭の略取』を注文。 
  4月18日 『法律と強権』と共に受け取る。 
  来たるべき社会のイメージを掴もうとしているのか。 
  5月の中頃には「ソロリン」という火薬の合剤を調合する方法を把握している。 
  5月25日には平民社から『自由思想』の一号を受け取り、同日幸徳あてに手紙を書いている。幸徳は同志からの通信はそのつど処分しているので現物は残されていないが、宮下がその主旨を供述している。 

「研究によって爆裂弾の調合が判った………主義のために斃れる………」 

  5月27日、28日には『自由思想』一号を再び受け取る。 
  同、5月28日には菅野スガより「会って話したい」との通信が届く。 
  6月6日には千駄ヶ谷に移っていた平民社を訪ねる。 

  宮下の予審での第21回調書が残されている。 

「私は、幸徳、菅野両人に対し、爆薬の調合も判ったから、いよいよ爆裂弾を造って、天子を斃すと申したるに、幸徳も管野も之に同意しました。もっとも、幸徳は自分も一緒に、加わってやると名言しませんでしたが。 
  私に向かって、 
    君は田舎に住まっている人であるから、別に面倒な事もないが、自分らは東京に住し、人に顔をよく知られているから、いよいよ実行する時機が来たら、三ヶ月くらいは、所々、田舎に引っ込み、一時姿を隠しておかねばならぬ。 
  また、 
    その如き、事をやるについては、その理由を書き残しておかないと、世間から狂者の所為の様に思わる。と言いました。 
  それで、私は無論、同人らは、私と事を共にする考えがあったもの、と思いました。」 
 

幸徳は、自分自身が参加することは曖昧にしていたが、菅野スガは積極に反応していた。 
  菅野スガ・第二回聴取書 

「私は元来、無政府共産主義者の中でも、過激なる思想を懷いておりましたが、………とうてい温和なる手段で、主義を伝道するなとは手ぬるい事であると考え、寧ろこの際、暴動もしくは革命を起こし、暗殺等も盛んにやって、人心を覚醒せなければ駄目であるから、出獄後は、この目的のために活動する考えを起こしたのであります」 

「6月、宮下と前相談した中に、私からこの計画をやる二人、新村忠雄・古河力作の両人は、予って熱心なる主義者で、最もしっかりして居るから、この両人も、入れる様に相談致しました」 

  この6月の平民社での話し合い以降、宮下の活動は爆裂弾の材料集めと製造に集中して行く。 
  7月5日 甲府の薬屋で、塩酸カリ九百 入手。 
  7月10日 鶏冠石、入手依頼の手紙を亀崎の知人に出す。 
  7月19日 塩酸カリ、入手依頼の手紙を新宮の新村に出す。 
  7月31日 鶏冠石千二百 、明科の宮下の下に届く。 
  8月11日 塩酸カリ四百五十 、新宮の新村から届く。 
  11月3日 明科背後の大足山中で爆裂弾を試発させる。

1910年

1月1日 宮下は前夜より平民社に滞在していた。幸徳、菅野、新村と朝より午後3時頃まで談論。 証拠物写し第一冊 爆裂弾の容器と火薬を黒いカバンに入れて持って来た。ブリキ容器二個、白い粉末の塩酸カリ、鶏冠石粉末 直径一寸、長さ二寸のからの容器を握り、畳の上に投げつけた

1月 23日 古河、千駄ヶ谷平民社を訪れる。宮下は不在。 「この計画も、話も進行させない。年寄りはだめだ。あの人はもうやめさせようじゃないか。」

新村 「いやな人はよせばいい。やりたい者がやればいい」

古河 管野が加わる。新村、ノートに鉛筆で図面を引く。馬車襲撃の方法、手順、役割などの説明。襲撃の時期「本年の秋季」漠然たるもの

2月6日 新村、明科の宮下を訪ね、下宿に二泊。1月 23日の話を伝える。 管野の指示を新村が伝える。「ブリキ缶と鉄缶とどちらが爆発が強いか。もう一度実験してみよう」    3月6日 宮下、新村と品川駅で落ち合う。話の内容は不明。

3月 23日 平民社解散、幸徳は湯河原へ。

3月 25日 新村、明科の宮下、下宿へ一泊

3月 27日 新村、再び一泊

4月 23日 管野、湯河原から宮下へ手紙を出す。 「もう一度、爆裂弾の試験をして欲しい」 4月?日 宮下(職工長)製材所の鍛冶工場で新田融にブリキ缶の製作を依頼。24個を製作。「蚤とり粉を入れて、いたずらをするのだ」前年12月の製作に続いて二度目。

4月 26日 宮下、尾代町の新村を訪ねる。2月6日の再実験の場所を捜す。人家が散在し、見つからない。「秋までには、まだ時間的余裕があるから、いずれそのうち、場所を選んで実験をしよう」新村、強く主張 「5月1日に、屋代の北東の山中において、昼間、爆裂弾の試発をしよう」

5月1日 宮下、部下である清水の妻、小沢玉江と自由恋愛

5月8日 清水宅に火薬を預ける。(昨年 11月に一度預けて5月始めに引き取る) 白木の箱に釘付けして、古河力作へ「変事のあった時は」郵送とメモをつけていた。

5月 14日 新村の明科入りを、駐在の小野寺老巡査が察知、追跡。

宮下の供述内容。第 15回調書 「管野も入獄する。私も … 」

5月 17日 宮下、屋代の新村に会いに行く。新村は上京した後で不在。 小野寺巡査、工場のスパイ結城三郎よりブリキ缶の情報を入手。 管野、新村、古河で実行のクジをひく。 5月18日 管野、東京監獄に入獄

5月 19日 新田融、警察に宮下からのブリキ缶製造依頼を話す。

5月 20日 宮下を小野寺巡査と中村刑事が訪問する。「爆発物を製造したるものなりと思料し」下宿の任意家宅捜索、ブリキ缶三個が発見される。

宮下、清水宅を訪ねる。「巡幸の時に投げつける。管野、新村と自分と三人でやる。天長節にやる予定だ」

5月 21日 爆弾の材料を工場に移す。

5月 22日 清水は工場長西山に宮下の爆裂弾の件を密告に松本に行く。所長は出張で不在。 5月23日 長野県警察署長会議に向かう、松本警察署長、小西吉太郎に明科駅で中村刑事、小野寺巡査から宮下太吉に関わる爆取罰則違反容疑の報告書を受け取る。

5月 25日 午前6時、中村刑事、小野寺巡査が清水太市郎宅を急襲清水、宮下の計画を話し、爆裂弾の容器であるブリキ缶を製材所に移したことを話す。警察部へ出張中の署長に急報。 新村の検挙を検事正と打ち合わせ、屋代警察署長に検挙を指示。午前10時から11時まで明科製材所を承諾捜査

宮下太吉が午後3時過ぎに逮捕される。

「ブリキ缶を製造させた事実を認める」新村忠雄が自宅にて屋代警察署により逮捕。午後3時過ぎ。 午後 11時過ぎに新村善兵衛も拘印引状が執行される。

5月 27日 長野地裁三家検事正は東京にて検事総長の指揮を請う。東京地裁、小原検事に長野地裁への出張辞令を交付。

5月 28日 午前10時半、三家検事正は警察署長会議の最終日に出席 古河力作、任意同行を求められる。

翌日、長野地裁検事局に巡査に付き添われ出頭。

5月 31日 三家、事件を検事総長に「刑法73条に該当する犯罪」として送致。 七名<宮下、新村兄弟、管野、新田、幸徳、古河>

午後 10時「大審院長の命により」予審判事潮恒太郎は湯河原の幸徳に対して刑法73条にて拘引状を発す。

6月1日

午前6時 10分、横浜地裁検事正、神奈川県警警察部長ら幸徳逮捕のため小田原で合流。午前8時30分、軽便鉄道「門川停留所前」にて幸徳逮捕される。

宮下太吉 初日 「お前らは世間で、犬だといわれているがほんとうに犬だ」

次の日 「役人はまっすぐ歩かない、とわれわれは思っておったが、お前らによってそれがよくわかった」「いおうか、いうまいか。ウッカリいうと、笠の台がとんでしまう」

三日目 「この事件はどうせ東京へ送られるであろうから、東京へいってから自白する」

宮下は取り調べで供述を始め、爆弾製造と皇室が目標だと認める。

予審調書概要

第1回 1910年6月4日 判事 長島長蔵
社会主義者になった動機、森近、幸徳との接触
天皇を斃す決心、爆裂弾の材料

第2回 1910年6月5日
幸徳、新村、管野、爆裂弾の相談

第2回 1910年6月5日

問 そのとき新村に宛てた手紙の文句で覚えているだけ申して見よ。

答 よく覚えてはおりませんが「〇〇を製造して主義のために斃れる」というようなことを書いたと思います。これだけ書けば外国で爆裂弾を使用して倒れた社会主義者がたくさんありますから、新村にも推測できると思いました。

第3回 1910年6月6日
新田に缶を作って貰った
暴動の時期

答 前に天皇を斃すために爆裂弾をつくるのだとという相談したと申しましたのは間違いで、先年の錦輝館事件のような暴動を起こすのだと新田に話たのです。 …

問 場所をどこと言ったか。 答 東京市内各所で暴動を起こすと申しました。

第4回 1910年6月7日
爆裂弾運動を幸徳に話した顛末

第5回 1910年6月8日
明科での生活、姉と同居

答 錦輝館事件のときのような暴動とは言いましたが、あのくらいの程度のことではありません。それなら何も爆裂弾など必要ではありません。私は官憲に抵抗して暴動を起こすというので、諸官省はもちろん、三井・岩崎などにも放火し、爆裂弾をもって各大臣をやっつけると申したのでありまして、暴動というより革命といったほうがよかろうと思います。

第6回 1910年6月10日
武市方での勤務状況、幸徳を訪ねた日

第7回 1910年6月10日
新田融との関係

第8回 1910年6月11日
愛人社、川田倉吉と一回会った
1909年2月13日、巣鴨平民社

第9回
天皇を斃すという計画、森近からの影響
古河を推称される

第10回
清水に計画を話した日
日記をもとにした訊問

第11回
問 森近が被告に対して「古河は桂候を短刀ををもって暗殺しようとしたが、目的を達しなかったので泣いた」ということを言わなかったか。
答 そういうことは申しません。ただ「短刀では駄目だから、爆裂弾が欲しいと古河が言っていたと」と申しました。
問 森近は幸徳とダイナマイトをつくる方法を研究したというようなことを話さなかったか。
答 森近はそのような話はいたしません。
……

第12回
証拠として手紙の表示ありたり。

第13回
古河加入の話
自身の変事の際、薬品を古河に送ることを清水に依頼した話
清水への薬品預け、清水の妻との関係
清水の妻と「通じた」話
塩酸加里、新宮にいた新村忠雄から送付されたが、その入手先

第14回
塩酸加里を送ってきたときの手紙の文句を思い出せないか
大石からもらっただろうと追及
秤の購入先

第15回 1910年6月28日
各証拠物を示して申し立てを聞く
森近に関すること
試爆用の鉄缶
日記への書き込み
『無政府共産』の影響
明科に新村忠雄が泊まった日付、九月二十八日
3月6日、品川停車場で新村に会った件
清水の妻たまと「通じた」日、日記に記した件
五月十四日に新村忠雄とどんな話をしたか
「清水たま」とのことを打ち明ける
五月八日の記述「うわさになっているが、清水に関係はしていないと話す」「清水は、俺はそんなことを信じていないから安心せよ、と申した」
五月二十二日、清水宅に行き、清水は留守で、たまが一人で居た。「世間で評判になっている」、たまは「私が死んでしまえば両方の顔も立つだろう」などと申したので、そのまま帰宅した。
五月一日、深志公園の開園日、清水は一人で出かけてしまった。「つい妙な仲になったように思う」

16回 1910年6月29日
塩酸加里を買い入れた薬屋、畑林、1909年8月6日であったということだが
「新村忠雄へ、塩酸加里を督促した手紙を八月一日に出した」
森近が援兵として上京と言った主意
大阪で最初に面会たとき「諸官省を焼き払い、監獄も焼き払って囚人を解放するような騒動を起こすこともある」と私に語った…
諸官省といったのなら天皇も同時に斃し、登記所や税務署をも焼き払うと言わなかったか
「そんなことは話しませんでした」
無政府共産主義にするというし詔勅を仰ぐという話はしなかったか
「そんな話もいたしません」

第17回 1910年7月1日
天長節で爆裂弾を試験したときに用いた缶はブリキ缶
であったというがどうか
「ブリキではありません、亜鉛です、五個つくってもらって十銭払ったと思います」
新村忠雄を介した奥宮に関する訊問

第18回
これまでの訊問の確認

第19回 1910年7月9日
爆裂弾の製造に関して実際家の説、新村忠雄に依頼
渋谷にいる奥宮健之
「幸徳宅では奥宮の話は出なかった」
奥宮に関する訊問が続く

第20回
1908年10月22日に森近から来た手紙の内容
秘密出版物を送る
『無政府共産』五十部を送ったのが誰だか判らない
諸官省焼き払い二重橋に迫る計画が書いてあったのでは
「書いてあったかもしれません」
「暴力革命を起こし、諸官省を破壊し、皇室を倒さねばならないということは当時から考えていた」
「11月10日、大府駅における天子通行の話を、11月13日森近に送った手紙に書いた、して自分は爆裂弾をつくって天子を斃す決心をしたという趣意」
暴力革命、東京での計画に関して訊問が続く
古河と実行を共にできると決心
幸徳の関与を絡めようとする訊問

第21回 1910年10月20日
1907年1月中から社会主義を奉ずるようになったのか
1907年、12月13日、森近訪問、話した内容
1908年の日記、11月頃、皇室の上に「寄生虫の集合体」「革命の時は皆殺す」と記す
森近との交流を訊問
『無政府共産』の配布
爆裂弾製造の決意時期
幸徳との書面往復、面会
管野、新村、古河との接触
森近郷里に戻る話と援兵
1908年3月、熊本に仕事で行きその際に社会主義者たちと
会った話、松尾卯一太宅に宿泊、新見卯一郎、宮崎民蔵、佐々木道元などと面会『熊本評論』をもらう
松原徳重から爆裂弾の製法を聞く
1909年、亀崎から明科に移る途中、6月6日、7日千駄ヶ谷平民社に宿泊、幸徳との話
「爆裂弾をつくって天子を斃す、幸徳、管野は同意」「幸徳は自分も加わってやるとは明言せず」「暴力革命の話」
明科での活動
7月5日、紀州にいた新村忠雄とのやりとり
9月28日、新村忠雄が宮下宅に宿泊
1910年秋、天子通行の際馬車に投げつけ東京市内で暴動大臣暗殺の話
新田には詳しい話をしていない
所有の地図に赤インクの線、1909年11月「青山練兵場行幸」の道筋の印、場所選定の準備 
缶を投げる練習
1910年2月7日、新村忠雄が宮下宅にきた時の話、今年の秋決行
管野、古河、新村、私の四人が爆裂弾をもって天子通行の道筋に分かれて立ち馬車前方にいるものから投げるということを新村忠雄が書いて私に示す、管野が合図役…(宮下太吉予審終わり)


12月10日大審院公判が始まる。

1月18日死刑判決。

19日大杉栄に「文明とは人命の下落の由に候」とハガキを送る。

1月24日絞首、執行寸前「無政府党万歳」と叫んだと伝わる。                        

宮下太吉書簡、大杉栄宛 「昔の人の話に神罰程恐ろしきは無き由に候」

「或物知りの話に文明とは人の命の下落の由に候」

お願みしたい事がありますから御都合の宜敷面会にきて下さい。

堺利彦様に宜敷。

「麦地におちて他の麦生ず」とか申事をヤソ坊主に聴いた事がある。

幸徳事件クロニクル/処刑以降

市ヶ谷刑務所陸測図該当エリア

アメリカ、ヨーロッパにおいても処刑反対の抗議行動が広がり、政府は死刑執行を急ぎ、判決後一週間内で12名を処刑した。国内でも審理終結前後から徹底した報道・情報規制を行い地方紙を主として幸徳や無政府主義に触れた記事掲載で15件余りが発売・頒布禁止、差押処分を受け新聞紙条例・新聞紙法違反で禁錮、罰金判決が出された。弁護人ですら公判記録を判決後所持することは認められず大審院は返還要求をした。また刑死者の獄中記や遺書を法務、監獄当局は隠匿し続けた。  1月25日、幸徳の遺体は堺が引取、落合火葬場へ運ぶ。古河の遺体は実父が引取、大石は実姉が火葬、森近の遺体は堺が引取27日に火葬場へ運ぶ、内山の遺体は義弟が引取る。

25日、徳富蘆花、天皇に対し「12名の助命嘆願」の手紙を書き、東京朝日新聞主筆、池辺三山に託す(執筆時、処刑報道は伝わっていなかった)。
26日、管野の遺体、増田謹三郎が引取る。成石平四郎、松尾、新美の遺体、堺為子が引取る。
26日『二六新聞』紙に1月21日付け「管野すがより大杉夫婦宛書簡」掲載。
27日、荒畑寒村、増田方を訪れ管野須賀子の遺体と対面。27日、古河遺体火葬、27日、内山の遺骨は箱根林泉寺に埋葬
28日、古河遺骨、渡辺政太郎が堺方に移す。28日、管野須賀子の遺体、正春寺に埋葬。
28日、徳富蘆花、「謀反論」の演説草稿を完成させる。
29日、新村実姉、共同墓地の新村遺体を火葬
29日、ニューヨークで幸徳死刑への抗議集会と日本領事館に向けデモ。
30日、堺利彦宅にて刑死者の遺体引取りに関わった人たちの慰労の集まりが開かれる。
31日、新村遺骨、染井墓地に埋葬。

2月1日、幸徳秋水遺著『基督抹殺論』刊行。幸徳が公判中に脱稿し、処刑後一週間での刊行。印税は後に第一回の屋外メーデーの活動資金にも充当された。2月1日、徳富蘆花「謀反論」と題する講演を一高で行う。

2日 大石遺骨、新宮町南谷共同墓地に埋葬。
5日、堺利彦、監獄共同墓地の宮下の遺体を引取り火葬。
6日、政府寄りの「大逆事件講演会」国学院大学で開かれる。逆徒幸徳非難の保守的演説会であったが、唯一三宅雪嶺は官憲、裁判所を批判。
7日、幸徳の遺骨、中村の正福寺に埋葬。
12日 サンフランシスコで処刑者追悼大演説会が開かれる。
17日、宮下遺骨、実姉により甲府市三吉町光沢寺に埋葬。

 同志たちは接見禁止解除後、面会、差入で支援し、堺も在監中に関連して取調べを受けたが9月2日に出所、12月に売文社を立上げ、赤旗事件で出所した同志たちや仲間の仕事を確保しつつ、処刑者の遺体引取、火葬、遺族への慰問に奮闘した。

 大杉栄も千葉刑から東京監獄に移送され幸徳たちに関連して取調を受けたが、検事はフレームアップに組込むことはできず、11月29日に出所。面会、差入れを続けた。処刑後3月17日、大杉栄は東京を出発して大阪の「大逆事件」受刑者の家族を見舞い、22日に帰京、24日、同志茶話会にて「春三月縊り残され花に舞う」の句を読む。大杉はその後も懲役者への差入、刑死者の墓参りをした。
24日、古河遺骨、牛込、道林寺に埋葬。
堺は遺族の慰問で各地を回る。4月7日、岡山に森近の妻と実弟を慰問。
11日、エマゴールドマンより弾圧犠牲者への義捐金が加藤時次郎を受取人として送られる。
11日、堺、熊本の松尾の妻、実父、実弟慰問、佐々木の実母、実兄、新美の内縁の妻、叔父を慰問、墓参り。松尾方にて古庄友祐<旧『熊本評論』社同人>と対談、
22日から27日にかけて高知県中村の幸徳義兄宅滞在、幸徳の家族たちと交流、
28日には兵庫県小松留守宅訪問、
29日、武田内縁の妻、実弟を慰問、岡本内縁の妻、三浦家族を慰問。
5月3日、和歌山を訪問。大石、高木、峯尾、西村を慰問。成石の家族には書面で慰問。
5日、三重の崎久保遺族を慰問。
7日に帰京、同志への報告会を開く。
12日、堀保子、秋田監獄の坂本に書籍郵送するが、閲読は不許可になる。
7月、官憲の記録には<堺利彦、7月19日附け茨城在住小木曾助次郎へ宛てに「故幸徳伝次郎が在獄中より弁護士に送りたる極めて有益なる書面なれば一読の上返却せられたし」との意味を附記し郵送せり。「幸徳秋水の獄中より弁護士に贈る書」>とある。後に「陳弁書」と題される幸徳のテキストが同志間には閲覧されていた事実があり、フレームアップ事件としての「幸徳事件」の概要は知れ渡っていた。

1913年2月3日、大杉栄、秋田監獄の坂本に面会。[坂本清馬年譜]
1914年4月14日大杉、坂本宛に手紙発信。16日に坂本は手にする。
大杉は<坂本の姉が心配しているとして司法省に谷田監獄局長を訪ね、局長と典獄から二件の許可を得る。<書籍差入れを大杉が受持つ、坂本からの書信は交互に大杉と坂本の家族に発信する、大杉と坂本の家族も交互に発信する>

海外での抗議活動

1910年9月21日、ロイター通信が「天皇暗殺計画」を報道。
11月12日 エマ・ゴールドマン、ヒッポリート・ハベルら5名のアナキスト・自由思想家が駐米全権大使内田康哉あてに講義文を送る、これを機に全米、ヨーロッパ抗議行動が広がる。
11月22日 エマ・ゴールドマン、ニューヨークで第一回抗議集会を開く、数百名が出席「ニューヨーク・アピール」を採択。 12月10日 ロンドンのアルバートホールにおいて「処刑反対大演説会」が開かれる。
12月12日 ゴールドマン、ハベル、ニューヨーク、抗議集会、桂首相に抗議文を提出することを採択。
12月16日 岩佐、サンフランシスコで「幸徳記念演説会」を開く、作家ジャック・ロンドン支援日本大使に抗議文を送る。
12月 報告<コウトク事件>ヒッポリート・ハベル『マザー・アース』掲載。
1月 報告<日本における正義>ヒッポリート・ハベル『マザー・アース』掲載。
2月、報告<アナーキー万歳!>ヒッポリート・ハベル『マザー・アース』掲載。
「悪業が行なわれた。民衆の中の最良にして高貴な者が倒れ、最も悪魔的で野蛮な方法で殺 害された。比べようのない極悪な犯罪が1911年1月24日行なわれた。恐るべき打撃を人類に与え、文明の面前に挑戦状をたたきつけた。無情な野蛮主義が新思想のパイオニア達を 冷酷に縊り殺し、その絶望的な犠牲者達の苦痛に狂喜している。だが、われらは悲しまない。むしろわれわれの同志達の無実、純粋性、公明正大、忠実、自己犠牲と献身を全世界に表明するのがわれらの仕事である。われらは悲しまない。われらの友は不滅を成しとげ たのだ。新時代が彼らの受難の日をもって日本を衝撃した。ミカド・ムツヒトの時代は、人間の記憶から消えよう。ブシドウもおとぎ話で神話に過ぎない時も来よう。だが受難したアナキスト達の名前は人類の進歩の頁を飾るのだ。大審院の構成員達、人類の高貴な者を執行者の手にした彼らは、やがて忘れられよう。だがトウキョウの殉教者達は未来の世代の人々によって尊敬され賛美されよう。………」
2月、報告<コウトクデモ>『マザー・アース』掲載。
2月11日 報告<親愛なるホール様>エマ・ゴールドマン『マザー・アース』掲載。
2月15日、「ロンドンタイムス」記事 イギリス議会で「大逆事件」が議題となり、裁判手続、思想の自由等を独立労働党のケヤ・ハーディーが質問する。

12名、投獄後の状況

1914.6.24 高木 秋田監獄で縊死
1914.9.30 坂本 法相尾崎行雄宛に「無実を訴える」上申書を提出
1915.7.24 新村善兵衛、千葉監獄より仮出獄
1916.5.18 三浦 長崎監獄で自殺
1916.7.15 佐々木、千葉監獄で獄死
1916.10.10 新田、千葉監獄より仮出獄
1917.7.27 岡本 長崎監獄で病死
1919.3.6 峰尾 千葉監獄で病死
1919.4.2 新村善兵衛、大阪で死去
1925.5.10 飛松 秋田刑務所より仮出獄
1929.4.29 崎久保は秋田刑務所より、成石勘、武田は長崎刑務所より仮出獄
1931.4.29 岡林、小松は長崎刑務所より仮出獄
1931.1.3 成石 死亡
1931.10.1 坂本、秋田より高知刑務所へ移送
1932.11.29 武田 自動車事故で死亡
1934.11.3 坂本 仮出獄
1937.3.20 新田、東京で死亡
1945.10.4 小松 困窮の中で死亡
1946.2.24 坂本、岡林 刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」
1948.6.26 崎久保、飛松「復権」
1948.9.1 岡林、高知で死去
1952.10 坂本「逆徒といわれて 在監25年・幸徳事件の真相」を『中央公論』10月号に発表。
1953.9.10 飛松、山鹿町で死去 65歳
1955.10.30 崎久保、市木村で死去
1975.1.15 坂本死去 84歳
1975.1.24 中村で追悼会「故坂本清馬君翁を讃える会」発足

再審闘争

1960.2.23 「大逆事件の真実を明らかにする会」発足
1961.1.18 坂本清馬、森近栄子(運平実妹)、東京高裁に再審請求申立て、東京高裁、森長弁護人等代理人
1963.9.13,14 坂本出廷陳述
1963.11.29 荒畑寒村証言
1963.12.20 荒畑寒村証言
1964.1.13,14 森近栄子他証言、岡山にて
1964.3.11 築比地仲助、証言
1964.5.8 崎谷一郎、証言
1964.7.15 日弁連、旧東京監獄刑場跡に「刑死者慰霊塔建立」
1964.9.25 神埼清証言
1964.12.28 意見書
1965.1.29 弁護人意見陳述
1965.12.1 再審請求棄却 (註 公表10日)
1965.12.14 特別抗告
1966.9.20 最高裁審理決定
1967.7.5 高裁決定を有効と判断、特別抗告棄却

大逆事件の家族たち

市ヶ谷刑務所陸測図広域


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平民社における階級と民族―亜洲和親会との関連を中心に― イ・キョンソク

近世無政府主義中扉

イ・キョンソクさんの論文をご本人がテキストデータアップしたと推測できますが2004年のブログから転載。イ・キュョンソクさんご連絡頂けますか。

平民社における階級と民族―亜洲和親会との関連を中心に―

早稲田大学   

《 目 次 》

 はじめに

一 平民社における階級と民族

二 亜洲和親会の創立

三 朝鮮側の参加問題―趙素昂の場合―

 むすびに 


はじめに

 七博士の建白や対露同志会などが政府の軟弱外交を批判し対露強硬論を唱えるなか、それまで日露非戦論を主張していた『万朝報』が一〇月八日の社説に「戦争は避く可からざる乎」を載せ主戦論に転じた。この決定に反対した幸徳秋水と堺利彦は一二日の『万朝報』に「退社の辞」を掲げて辞職し、二七日に平民社を設立、一一月一五日には『平民新聞』を創刊して、「平民主義・社会主義・平和主義」の合法的実践によって「自由・平等・博愛」の理念を完うすることを宣言した。

 平民社設立の直接の契機となった非戦論の性格については、一九〇四年一月一七日発刊の『平民新聞』第一〇号を境にして質的な変化があったという指摘がある。

 すなわち、それ以前の平民社同人たちの非戦論は無抵抗主義・世界主義の論理に立った「人道主義的な非戦論」であり、階級的な視点が欠如していたと言う。

 このような評価は、平民社の非戦論のみならず、幸徳秋水の『廿世紀之怪物帝国主義』や、日本における初期社会主義の理論全般に対しても行われてきた。

 この見方は戦後の歴史学界の主流であったが、ここには「空想より科学へ」というマルクス・レーニン主義を正統とする事後的な観点が投影されている。

 これとは逆に、日本の社会主義は黎明期においてすでに「直輸入型の傾向」があり、これは単に明治末期の社会主義思想のみならずコミンテルン時代においても同様の問題があったという批判がある。すなわち、その初めから階級論に偏り民族という要素を欠いていたというのである。

 この観点は、マルクス・レーニン主義の民族理論を批判してはいるが、その反動で自らがイデオロギーに拘束され事実を見そこなっている。ポスト冷戦の今日このような認識は修正を迫られている。

 空想か科学かという直線的な進化論の図式、あるいはそれに対する条件反射的な批判では、アジアの近代を正確に捉えられず、近代の負の遺産を内側から克服することはできない。

 平民社と亜洲和親会における非戦論から民族解放論への展開は、欧州とアジア、日本とアジアの社会主義の異同を示すものとして、「直輸入型」や「空想的」というレッテルを拒否し、新たな評価を待っているように見える。「幸徳や堺の行動に羨望の情」を抱いて平民社に合流したという石川三四郎は、当時をこう回想する。

「あの黎明期における混沌の中に、高いヒューマニズムの精神に徹していた点は、今も忘れることの出来ない美しさでありました。

・・・日本の社会思潮の上から見れば、あの平民社の生活は、汲めども、汲めども、滾々として汲みつくすことのできない、清冽な泉にも喩えられるべきでしょう」と。黎明期であればこそそこには様々な可能性が潜められていたと思われる。

 そして、黎明期における日本及びアジアの社会主義は、二〇世紀初頭のアジアという歴史的条件の下で、その内容を展開していったのである。とくに、アジアにおける社会主義の受容は民族問題と切り離せない側面をもっている。

 近代アジアにおいてはいかなる思想も民族問題から自由ではあり得なかった。アジアといっても、日清・日露戦争を経て資本主義を逸早く振起させ帝国主義への道を走り始めた日本と、植民地的危機に直面した他のアジア諸国においては、その内容が異なる。

 一九〇七年前後の東京において日本の初期社会主義者たちは、アジア各国からの革命家に社会主義を伝播する一方、彼らから帝国主義の現実と半植民地民衆の要求を汲みとることによって、理論の教条化を防ぎ実践との間の緊張感を保ち得たのである。

 このような観点から本稿では、欧州社会主義と比べ平民社における民族論にはいかなる特徴があったのか、そして、平民社と亜洲和親会は互いにどう影響し合ったのかを検討する。そのさい、これまで否定されてきた亜洲和親会への朝鮮側の参加問題をとりあげてみたい。

 
一 平民社における民族問題平民社と時を同じくしてあるいはそれ以前に欧州では民族問題をめぐる重要な論争が行われたが、『平民新聞』の紙上には、第二インターナショナルの各大会における議論が紹介されているほか、民族問題に関する論争が本格的にとりあげられてはいない。

 とくに、カール・カウツキーのように商品の生産や取引のため民族の形成が促されたという、民族を近代資本主義の所産とする認識は見られない。しばしば指摘されることであるが、幸徳秋水の『廿世紀之怪物帝国主義』(一九〇一年)においては、帝国主義を倫理的な観点から見る視覚と階級的観点から見る視覚が混在していたが、社会主義の理論的深化とともに、前者の観点がなくなり後者に収斂していく。 

 一九〇四年六月一九日『週刊平民新聞』に無署名で掲げられた「敬愛なる朝鮮」は、「朝鮮をして永遠の屈辱より超脱せしむる、只だ一途あることを自覚するならん、『国家的観念の否認』即ち是れ也」とし、一九〇五年七月一六日『直言』に載った「仁川歌舞伎座より」は、「憐むべき愛蘭人よ、汝が虚偽なる愛国心を捨ててゝ」資本主義を打倒するとき、「汝は初めて多年汝の国の歴史を形勢せる不幸より脱出して正路に進み得」べしと述べる。晩年のマルクスがすでにイギリスにおける革命の発火点としてアイルランド人の民族的蜂起を促してから数十年、そしてカウツキーが近代資本主義の発展にともなう経済的必然性の側面から民族を強調してから十数年が経過した時点においてもなお、単純に民族を階級闘争の阻害要素として敬遠している様子が窺われる。この時期の『平民新聞』に見える民族問題に関する論調は、一方では、帝国主義・軍国主義を一貫して批判し朝鮮及びアジアの民族運動に理解を示しながらも、他方では、労働階級の解放による抑圧の排除という社会主義の革命論理が並行しており、そこには、民族を近代資本主義の所産とする認識は表れていない。

 同じく、一九〇七年七月二一日『大阪平民新聞』と『社会新聞』に掲げられた「東京社会主義有志者決議」は、「吾人は朝鮮人民の自由、独立、自治の権利を尊重し之に対する帝国主義的政策は万国平民階級共通の利益に反対するものと認む、故に日本政府は朝鮮の独立を保証すべき言責に忠実ならんことを望む」と謳いあげた。これはあくまでも「平民階級共通の利益」に反しない限りにおいて一民族の解放が論じたれており、理論的にはそれ以前の個別の論調と同様であるが、直接行動派と議会政策派の両方の機関紙に「決議」の形式で表明されたところに大きな意義が認められる。というのは、当時理論的に対立していた両側が一同に「決議」を行った背景に、アジアの革命家とくに朝鮮人らの抗議と要求があったと見られるからである。この時期はまさに、平民社の人々とアジア各国の革命家たちが交流し、亜洲和親会を創立しようとしていたときである。そして、日本の初期社会主義者たちの民族と階級に関する認識は、アジア各国からの革命家らに社会主義を伝播する過程で、半植民地民衆の要求を汲みとることによって、理解を深めていくのである。 


二 亜洲和親会の創立アジア各国からきた革命家らの認識は、一九〇七年初め章炳麟を追って妻の何震と共に渡日し『民報』の総編集を担当していた劉師培の「亜洲現勢論」に端的に示されている。彼は、今や「日本はアジアにおいて、朝鮮の敵であるだけではない。同時にインド、安南、中国、フィリピンの共通の敵である」と、日本を帝国主義陣営の一国として明確に認識し、「日本の各政党がつくった日清・日韓・日印の各協会各公司は自国の勢力を拡張することを目的とするものだ、つまりそれらは我々の公敵でこそあれ、大同主義と同じものではない」と、既存のアジア主義的諸団体及び日本政府は、「アジアの公敵」であると規定する。そして、アジアの「諸弱種が連合すれば、必ず強権を排除する能力をもつことができる」と、相互間の緊密な連帯を主張するが、そのさい日本側の連帯の相手は、既存のアジア主義的団体ではなく、反帝国主義と反軍事主義に徹する社会主義や無政府主義者に求めているのである。

 一方、一九〇六年六月アメリカから戻った幸徳秋水は、翌年一月一五日創刊した日刊『平民新聞』紙上で、中国革命につき、「武昌における多数の革命党員は捕縛せられたるが、その多くは日本に留学したる青年にして、今や東京は革命党の本部と認められ、湖広総督張之洞は之が検挙に全力を尽しつゝあり・・・清国の革命運動は鎮圧によりてかへつて速かに激発さるるなるべし」と述べ、その三ヶ月後には、「支那の革命主義者らが、日本の社会運動者と握手提携する時期は遠くはあるまい。欧洲全体の社会党はほとんど一体となって働いているごとく、東洋各国の社会党もまた一体となり、進んで世界に推し及ぼさねばならぬ」と、連帯に期待を寄せていた。また、幸徳は一九〇七年六月一日付「協商の意義」において、アジア主義的諸団体の支那保全論を批判している。そして、一九〇七年七月二一日「東京社会主義有志者決議」が掲載された。かかる状況下に、アジア各国の革命家たちは、既存のアジア主義的団体の所謂「朝鮮独立論」や「支那保全論」の欺瞞性が明るみになるにつれて、現状認識を同じくする幸徳秋水ら直接行動派に急接近するようになる。

 直接行動派と同盟会左派の接触については、まず北一輝によって張継が幸徳に紹介され、その後、明治四十年春四月頃、章炳麟・劉光漢・何震が、張継に案内され大久保百人町に幸徳を訪ねて来たと、坂本清場は回想している。そして両者の関係は深まって、章炳麟らが幸徳らの金曜講演会に参加するようになり、また独自の社会主義講習会をつくって、一九〇七年八月三一日には、第一回大会を牛込赤城元町清風亭にて開催するに至った。

 同会は一二月二二日の八回大会までが何震が発行した『天義』に記録され、翌年四月一二日からは「斉民社」に改名されて、六月一四日の第五回大会までが『衡報』に確認されている。同会は、張継や劉師培らによって主導されたが、他のアジア諸国の革命家や留学生が多数参加していた。そして、「社会主義講習会」と時を同じくして、日本政府及び既存のアジア主義的諸団体の帝国主義的属性を明確に批判しアジア民族解放のための相互扶助を謳った、「亜洲和親会」の創立が進められた。会の創立及び活動に関して、以下では、現在確認できる大杉栄、堺利彦、潘佩珠、竹内善作、陶冶公ら五人の回顧を比較して論じることにする。竹内善作によれば、亜洲和親会は、「明治四十年の夏頃から会合の催されるようになつ」て、「その秋に章炳麟の筆になる宣言書が発表され」、第一回は、青山のインディアン・ハウス(インド留学生合宿所)で開かれ、中国の同志、ミスター・デーを中心とする印度の同志、日本の社会主義者(堺利彦・大杉栄・守田有秋)が参加した。第二回は、九段下のユニテリアン協会で開かれ、王族クアン・デを含む安南の革命党員やフィリピンの同志が加勢し、日本の社会主義者としては、堺利彦・森近運平・大杉栄・竹内本人が参加した。会の「約章」を見ると、その前文に「僕等ここに鑒み則ち亜洲和親会を建て、以て帝国主義に反対し・・・先ず印度・支那の二国を以て組織し会を成す。・・・一切の亜洲民族の独立主義を抱く者にして玉趾を歩むを願うあらば、共に誓盟を結べば則ち馨香祷祝以て之を迎うるもの也」と記し、反帝独立のため中国・印度を中心に会が進められアジア各国に連帯を呼びかける様子が窺えるが、「組織」の項には、「毎月聚会一次たる」こととともに、総部を東京に設き「支那、孟買、朝鮮、菲律賓、安南、英国等の処は、函件を収発するに皆定処を得しむ」と、諸国に分会を置くことを規定している。また、「宗旨」に、「本会の宗旨は帝国主義に反抗するに在り。

 亜洲の已に主権を失せる民族をして各独立を得しむるを期す」とし、「会員」の規定に、「凡そ亜洲人にして、侵略主義を主張する者を除き、民族主義、共和主義、社会主義、無政府主義を論ずること無く、皆入会することを得」と、主義の如何を問わず、反帝国主義・反侵略主義の統一戦線を目指すことを謳っている。そして、「義務」第一条に、「亜州諸国、或は外人侵食の魚肉と為り、或は異族支配の傭奴と為る。・・・故に本会の義務、当に相互扶助を以て各独立自由を得しむを以て旨と為す」。

 第二条に、「亜洲諸国、若し一国に革命の事有らば、余国の同会者は応に相互協助すべし。直接間接を論ぜず、総て功能の及ぶ所を以て限と為す」とし、独立と自由のための連帯を主要な義務としている。約章のなかにある「相互扶助」の語は、明らかに無政府主義の進化理論を土台にしたものであることが看取されよう。これは、スペンサーの社会進化論に対するアンチ・テーゼとして、クロポトキンによって出された『相互扶助論』の影響であることは言うまでもない。

 しかし、亜洲和親会は無政府主義の影響をうけながらも、約章に見えるように、帝国主義に断固反対し、被圧迫アジア諸民族の独立のための連帯を、前面に押し出している。実際大杉栄は、章炳麟を無政府主義者ではなく民族主義者と見なしており、参加インド人に対しても共和主義者であるという認識をもっていた。

 つまり、会は、竹内善作が、「ゆく  はアジア連邦を結成しよう」というのが会の主張であったと述懐し、劉師倍の「亜洲現勢論」や章炳麟の「五無」論にもよく示されているように、その究極目標を無政府主義或はアジア連邦においていたが、その会員は当面の目的である民族独立に賛成するならば、共和・民族主義を問わず参加が要求されていたのである。しかし、直接行動派が国内的弾圧に壊滅されていくのと同時期に、亜洲和親会は国際的な帝国主義の包囲網のなかで、中心会員の多くが国外追放などにより、日本における運動の拠点を失い、政治勢力として大きな影響力を及ぼすには至らなかった。

 大杉は、「すでに二、三回の会合を遂げて、まさに諸種の活動に移らんとしていたのであったが、例の赤旗時件のために日本の同志は投獄され、次いで支那およびインドの同志も日本政府の強圧に余儀なくされて各地に離散し、ついに何等の効果をも挙げることができずに解散してしまった」と、述懐している。

 すなわち、一九〇八年一月十七日の金曜講演会における所謂屋上演説事件、さらに、六月二二日の赤旗事件によって、多くが刑に服することになって打撃を被った。そして、屋上演説事件に係累して張継は離日を余儀なくされ、章炳鱗は新聞紙条例違反の廉で告訴されるなど、『日本平民新聞』『衡報』『民報』『天義』『雲南』などの機関紙誌は相次いで停・廃刊に追い込まれた。

 また、一九〇九年初め以降は、フランス当局の要請を受けた日本政府の在日ベトナム人に対する直接干渉が開始され、三月八日潘佩珠は横浜から退去せざるを得なかった。このようにして、亜洲和親会は一年たらずで幕をおろすこととなるが、植民地解放運動におけるその意義は画期的なものであった。 


三 朝鮮側の参加問題―趙素昂の場合― 

1)朝鮮側の参加問題 竹内善作の回想が残した問題のひとつは、「朝鮮の人々はこれに当時参加しなかつた」と語り、第二回会合のさい中国の同志から聞いた話として、「日本人が出席するならばわれわれは出席しない、という建前をとつておつた」と、述懐している点である。しかも、竹内は、第二回会合には、中国・印度・安南・フィリッピンの同志は出席したが、「不幸にして朝鮮の人々は一人も見えなかつた」と、再度念を押している。 

 従来はこの竹内の回想にのみ依拠し、朝鮮側の同会への参加は否定されてきた。一方、竹内善作の回想とは違って、潘佩珠の場合、『獄中書』(一九一三年)と、『潘佩珠年表』(一九三六年推定)のなかで、参加国の一つに「朝鮮」を挙げ、とくに後者においては、日本の平民党と中国・印度・菲律賓の革命家の他に、「朝鮮の」が参加したと、個人名までを明示している。

 この潘佩珠の回想に基き、白石昌也氏は、亜洲和親会の約章が「朝鮮」にも支部設置を規定している点、竹内善作自身が同会の目的を「中国、インド、安南、フィリピン、ビルマ、馬來、朝鮮、日本の各国の革命党を網羅する」ところにあったと述べている点、劉師倍の「亜洲現勢論」や幸徳秋水の「病間放言」などに朝鮮の活動家に関する期待が述べられている点などに触れ、同会に「朝鮮人の参加の予期されていたことは明らかであり」「恐らく朝鮮人は何らかの形で、この会に関与していた」と見ていた。 

 その後、冨田昇氏によって大杉栄と堺利彦の回想が紹介されたが、両人の回想のなかに朝鮮側の参加を記した個所がある。すなわち、大杉は、「日本、支那、朝鮮、安南、フィリッピン、インド等の同志が相謀って、亜洲和親会を設立した」と記し、堺も、章炳麟・張継・劉光漢らシナの革命家を中心に「インド人、安南人、朝鮮人などを加え、東洋各国革命主義者の集会を催した」と述懐している。

 このように、竹内・大杉・堺・潘佩珠の回想は、共通して「日本・支那・印度・安南」をあげているが、竹内のみが、朝鮮側について不参加及び第二集会における不出席を明言していることを、どう解すべきか。まず、同件に関する竹内の回想は中国の同志からの伝聞であること、しかも、「日本人が出席するなら」という条件を提示し、「建前をとつておつた」ことなどは、まったく別の解釈が可能になる。要するに、竹内の回想は、朝鮮側は少なくとも中国側とは密接に連絡を取り合っていたこと、しかも、条件を突きつけ欠席を仄めかすほど同会に深く関わっていたことを、却って示唆している。

 また、堺がフィリピンをあげないのを除けば、朝鮮以外の参加国名については四人の回想が一致していることは、朝鮮の参加を明記している他の三人の回想がより正確である可能性を高めている。 


2)趙素昂の場合 

 次に、潘佩珠のみが「趙素昂」の名を明示していることをどう解すべきか。他の関係者が沈黙する限り、この点を解明するためには、素昂の日本での活動を分析する他ない。趙素昂(一八八七~一九五八)に関しては韓国内に「三均学会」を中心に活発な研究が行われているが、会の名称が示す通り論議は、一九三〇年代に理論化された素昂の「三均主義」が主となっている。素昂は、一九〇四年日本に留学し、一九一二年帰郷、そして翌年上海に亡命している。

 あまり研究が進んでいなかった彼の日本留学時代の軌跡について、近年注目すべき研究成果が出されたが、日本の社会主義者やアジアの革命家との交流、そして亜洲和親会へ参加した可能性などに関する分析はなされていない。素昂は「三均主義」を、「個人と個人、民族と民族、国家と国家の関係を均等ならしめる主義」として、個人間には政治・経済・教育の均等化、すなわち普通選挙・土地及び重要産業の国有化・義務教育を規定し、民族間には民族自決の原則を弱小民族にも適用し、国家間には帝国主義を打破し戦争行為を禁止して平等な国際関係を発展させ遂には四海一家と世界一元となることを究極の目標とする、ものと規定する。この「三均主義」は、一九三〇年以後朝鮮の主要な左右合作及び民族独立運動組織の合同運動毎に指針として採択され、韓国臨時政府の綱領ともなった。この三均主義の定立過程を究明するなかで、洪善憙氏は、素昂の思想的背景となったものに、三民主義、大同思想、無政府主義、社会主義、六聖教、理気説を挙げているが、素昂が社会主義や無政府主義を東京留学中に受容した可能性は否定している。

 同氏は、素昂が無政府主義の影響をうけた時期について、一九一九年六月から二一年一二月におけるヨーロッパ歴訪期間であるとし、社会主義の影響については、とりわけ同期間中のイギリス労働党への共感を重視している。

 しかし、同期間中に素昂が訪問したのはヨーロッパの社会民主党の各政党とソヴィエト連邦であり、このとき素昂が無政府主義の影響をうけたことを示す史料は存在しない。さて、素昂の日本留学記録である『東遊略抄』には、留学中の素昂が無政府主義に興味を示し、中国の留学生とも交流していたことを窺わせている。

 まず、一九〇七年二月二日条には、「冊肆に往きて無政府主義一巻を買って来たる」とある。素昂が購入した『無政府主義』の冊子は、一九〇六年十一月に出た久津見忠息(蕨村)の著作である可能性が高いが、その発売元は他ならぬ平民書房であった。

『東遊略抄』における彼の思想を再構成してみると、立憲君主制から共和制へ移行する様子が窺われるが、まだ社会主義の影響は見出せない。ただ、彼が何らかの契機で無政府主義に興味を抱いて、平民書房発行の冊子を買い、しかもその時点が一九〇七年二月であることは注目に値する。当時はまさに日本の社会主義が議会政策派と直接行動派に分岐する時点であり、アジアの革命家たちと直接行動派がまもなく接触を始めようとしていた時期であった。ただ、亜洲和親会に集まった人は、潘佩珠に見られるように、無政府主義者だけではない。素昂の場合、このときの無政府主義とアジア連帯への関心が温められ後年発芽していくものと見られる。

『東遊略抄』は留学中の素昂が民族運動に積極的に参加していたことを示している。とくに注目されるのは、一九〇七年六月のハーグ密使派遣事件後の活動である。七月一六日付『報知新聞』が、在日韓国人留学生等は日本の怒りを解く事に努め中には皇位の廃立を求める者も有る、という記事を掲げたことに対し、留学生会は、事件の真相を本国・世界・日本の各政党に伝えることを決議した。素昂はその宣言書の起草委員となって、本国と世界の各政党に向けて夫々「告本国各社会書」と「痛哭告于本国同胞」の文を書いている。

 ただ、日本の各政党に送る文を誰が書いたのかは記されてなく、その文書も確認できないが、内容は素昂が書いた二つの文書と大きく異ならないと思われる。恐らくは、同趣旨の文書を日本語の上達した者が書いたであろう。

 さて、素昂がこの二文を書いたのは七月一八日であるが、朝鮮の独立を促した前記の「東京社会主義有志者決議」が出されたのは、七月二一日である。ときは、まさに亜洲和親会が発足する時期にあたり、「決議」の内容は素昂が書いた抗議文との関連性を示唆している。一方、素昂は一九〇八年六月二六日に新橋を出て朝鮮に帰り九月三日東京に戻るが、日記にはこの前後に素昂が清国留学生と交わっていたことが記されている。また、この時期の特徴は、以前の日記には韓国問題だけが記され国際的な記述はなかったが、国際的な重要事項に関して日記に「時事」蘭を書くようになったことである。主な「時事」の内容は、清国・印度・露国の情勢に関するものであった。たとえば、一九〇八年六月一〇日条に、清国革命の動向が、六月一二日条には、印度独立運動の動向が記されている。そして、六月二一日条には、「清国時事談会に赴く」とあるから、時事問題の記録が人的な接触と関係していると見える。そして、韓国から戻ってきてからはとくに、戴季陶との交流を記している。

 一九〇八年十月二五日条に、「清人戴良弼、十八歳人、大材也。面会の機を有せり」とあり、一一月一九日条に、「学校からの帰路、清人戴氏の寓を訪ねる」とある。無論、これらの記録は亜洲和親会と直接つながるものではないが、素昂がこの時期に中国のみならず印度の留学生及び革命家らと関係していた可能性を強く示唆しているものと言える。そして、『東遊略抄』の一九一一年一月二五日条には、「新聞を見る。此の日十二人の社会主義者に死刑を処す。即ち幸徳伝次郎及び管野水加以下也」という記述がある。

「大逆事件」の処刑について記した時期を前後して素昂は、当時進行中であった中国やメキシコ革命関連情報を二、三回摘記している以外、時事記事をとりあげていない。基本的に彼の日記の文体はきわめて簡潔である点を勘案すれば、この記録は軽視できない比重を占めている。韓国併合条約調印の日である一九一〇年八月二二日条に、「是日、号外を見る。則ち、合邦将に発布せられ、四千年故国、今焉に去らんとす」とあるのと、同様の沈痛さが伺われる。

 これと前後して、素昂自身も官憲に拘禁・拷問され「精神的な破裂」状態を経験するのである。また、素昂は一九一六年再び上海に亡命して、「大同党」の結成を推進し、印度・中国・台湾・緬甸・比律賓・越南などとの連帯を呼びかけていた。

 同会を素昂は、朝鮮語で「」或は「亜細亜韓薩任」と称し期待を寄せたが進捗せず、満州・沿海州などの朝鮮独立運動家との接触に奔走することとなる。ただ、素昂が作成した「韓薩任要領」は「人類・民族与国家三平之旨」を規定し、前述した三均主義の基底になっているが、同時に無政府主義の影響を強く受けたものと見える。とくに素昂は、同志金相玉を「大同党」に入会させながらクロポトキンの『近代科学と無政府主義』を勧めた点からして、アナーキズムに強く共感していたことが窺える。素昂は自己の政治理論の体系を「復国―建国―治国―世界一家」と段階的に示しているように、「復国」即ち独立を急務とし、それに様々な思想的意義を与えていたのであり、この論理は亜洲和親会の綱領とも一致している。

 
むすびに

 平民社の「宣言」は、ドイツ社会民主党の綱領に沿って安部磯雄が書いた「社会民主党」の宣言(一九〇一年五月二〇日)を受け継いだものであったが、「平民社」の場合、荒畑寒村が回想しているように、社会主義の「思想的原始時代」に「初めて書斎の研究から街頭の政治運動に進出」したところに大きな意義があった。

 街頭での実践は、国内の社会改革にとどまらず、非戦運動や反帝国主義の活動においても活発な国際的連帯が試みられ、平民社と亜洲和親会はアジアの社会主義および民族解放における連帯運動の嚆矢となった。平民社と亜洲和親会の関係について、両者の理論的な対立を強調する見方があるが、筆者はむしろ亜洲和親会に対する平民社の理論的な影響の側面を重視する。

 平民社と亜洲和親会をつなぐものとして社会主義講習会の存在を考えれば、人的にも理論的にも両者の関係は密接であることがわかる。亜洲和親会の「約章」及び「亜洲現勢論」のなかに社会進化論に対する相互扶助論の論理が示されている通り、同会は各国の独立を課題とすると同時に、社会主義及び無政府主義を理論的背景とし、それに基いた内政改革のプランや将来の国際社会のあり方を模索していた。

 すなわち、両者の理論は単純に対立するものとは言いがたい。一九〇七年のアジアという歴史的条件の下で、アジアの革命家らとの交流は、平民社同人に民族問題の重要性を促したと言える。

 ときあたかも、一九〇七年八月一八日から二四日の間に、第二インターのシュトゥットガルト大会が開催されていたが、同会合が、僅差で否決したとは言え、社会主義制度下の植民地文化論を議題に乗せ、採択寸前までいった状況に比すれば、亜洲和親会の創立はまさに画期的なものであった。

 独立を最優先にすることによって亜洲和親会は、社会主義のアキレス腱と言われる民族問題を乗り越え真の連帯を可能にし、玄洋社や東亜同文会など日本のアジア主義的諸団体が主張する東洋平和のための台湾・朝鮮・満州支配などの論理を、根底から克服することができたのである。

 しかし、亜洲和親会という弱者の連合は、会自体が一年足らずで弾圧に抗し切れなかったように、現実的には大きな勢力とはなり得なかった。同時に、会内部の思想的統一に欠け独立のみを優先させたため、イデオロギーによる左右分裂の可能性を内包していた。ただ、亜洲和親会は当時の帝国主義の進行に抗したアジア各国の革命的情勢のなかで生まれたものであり、その限りにおいて、趙素昂の上海での活動や東方無政府主義者連盟などに見られるように、以来連帯の試みは続けられ得たのである。

 東方無政府主義者連盟そのものが、大杉栄の遺志を継いだものであり、当該事件で拘束され獄死したが幸徳秋水の理論に強く共感していたように、平民社の人々の活動は以後も継承されていったと言えよう。 

 

管野須賀子『平民新聞』発行における奮闘

022



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東京監獄 陸測圖

市ヶ谷刑務所陸測図該当エリア市ヶ谷刑務所陸測図広域

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幸徳秋水著作『平民主義』

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叛逆の系譜

リブレーザ大逆事件トリミング_0001

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治安弾圧法

 思想、社会運動を弾圧する法律は
治安維持法以前にも露骨な内容で存
在していた。

1  まず爆発物取締罰則がある。
自由民権運動の加波山事件を契機
に太政官布告として制定され、
現代にも延命している罰則。
公布1884年(明治17年)12月
27日太政官布告第32号、

「第一条、治安ヲ妨ケ又ハ人ノ
身体財産ヲ害セントスルノ目的
ヲ以テ爆発物ヲ使用シタル者及
ヒ人ヲシ
テ之ヲ使用セシメタル者ハ死刑
又ハ無期若クハ七年以上ノ懲役
又ハ禁錮ニ処ス」

 爆弾使用とは無縁だから関係
ないと安心することはできない。

 1970年代には警視総監公舎事件
や土田・日赤事件を始めとして
多くのフレームアップ弾圧に活
用されている。
 市ヶ谷刑務所陸測図該当エリア


 2 治安警察法。
治安維持法制定以前の強固な弾
圧法であるが制定以降も従前の
集会、結社の自由を制限、弾圧
する法律として機能。当初、早
期の社会主義運動への弾圧、ま
た労働争議が頻繁に起き労働運
動、組合結成が加速化すること
への弾圧目的として制定。公布
は1900(明治33)年3月10
日。

「第1条 政事ニ関スル結社ノ
主幹者ハ結社組織ノ日ヨリ3日
以内ニ社名、社則、事務所及其
ノ主幹者ノ氏名ヲ其ノ事務所所
在地ノ管轄警察官署ニ届出ツヘ
シ…

第8条①安寧秩序ヲ保持スル為
必要ナル場合ニ於テハ警察官ハ
屋外ノ集会又ハ多衆ノ運動若ハ
群集ヲ制限、禁止若ハ解散シ又
ハ屋内ノ集会ヲ解散スルコトヲ
得」

1901年(明治34)年に社会民主
党、1921年(大正10)年、
日本社会主義同盟が結社禁止の
処分を受けている。

10条から12条は臨監する警察官に
よる「弁士中止」の根拠。


 3 行政執行法。

治警法と同年に制定された「検束」
の根拠となる法律。名称は地味だが
無茶苦茶な適用がされる。公布、
1900(明治33)年
6月2日 法律第84号。

行政執行法 

「第1条
①当該行政官庁は泥酔者、
瘋癩者自殺を企つる者其の他
救護を要すと認むる者に対し
必要なる検束を加へ戎器、
兇器其の他危険の虞ある
物件の仮領置を為すことを得
暴行、闘争其の他公安を害する
の虞ある者に対し之を予防する
為必要なるとき亦同し 

② 前項の検束は翌日の没後に
至ることを得す仮領置は30日以内
に於て其の期間を定むへし」。
故森長英三郎弁護士によると
(『山崎今朝弥』
紀伊国屋新書、収載)

「行政執行法で検束、
たらい廻し、長期間拘束、
拷問自白の強要、
警察による一方的検束、
警職法の前身である。
<公安を害するの処>
という抽象的なことばで、
社会主義者はつねに故なく
検束された。

 また翌日、日没前に警察署の
裏口から出して、そこで検束
して表口から入れたり、
他の警察署へ検束する
たらい廻しを頻繁に
行うことによって、
前述した別件逮捕の
代用品として利用せられた。

1931年以降さらに活用、乱用。」


4 過激社会運動取締法。

 これは治安維持法につながる
法律。
 二度、国会への上程策動があっ
たが破綻している。名前からして
露骨なもの。1922年3月24日、
貴族院で修正可決、衆議院では審
議未了。1923年始めにも再上程策
動。「労働組合法案」「小作争議
調停法案」と共に労働3悪法とい
われ制定反対集会とデモが行われ
る。
 

 1923年9月2日には関東大震災で
戒厳令が出される。
 戒厳司令官は集会・新聞・雑誌・
広告の停止、兵器・火薬等の検査・
押収、郵便・電信の検閲、出入物品
の検査、陸海通路の停止、家屋への
立入り検査などの権限をもつ。


 5 治安維持法。1925年
(大正14年)法律第46号。

「第一条 国体ヲ変革シ又ハ
私有財産制度ヲ否認スルコトヲ
目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ
情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ
十年以下ノ懲役
又ハ禁錮ニ処ス」
 
 当時刊行されていた
『労働運動』紙8号によると
(1925年2月1日発行)5面
「<犯罪的サンジカリズム法>
として加洲(カリフォルニア州)
に於ける治安維持法が
1919年4月から
施行」と内容を紹介、
「この例に倣って治安維持法を
発布せんとしている」と
記事掲載。

「往年の過激法案は
今護憲三派内閣の手によって
装いを新たにして再び吾々に
臨まんとしている、
政府は各方面の反対者に対し
てその目的を無政府主義者及び
共産主義者のみを圧迫するもの
如く説明している、
一般社会主義者、
労働運動者、労働運動階級の
解放運動に従うものはその適用
を受けることを覚悟せねば
ならない」


 治安維持法制定直前だが、
これらの一連の弾圧法により
拘束が続いたのが不逞社の
金子文子と朴烈。

弁護人であった布施辰治は
『運命の勝利者朴烈』(1946年刊)
で弾圧の経過を記述。

<1923年9月3日の逮捕は
保護検束という行政執行法
第一条の「救護を要すと
認むる者に対して必要なる
検束を加う」という規定の
適用。

 9月4日には救護検束が
24時間過ぎたので警察犯
処罰令の
「一定の住居又は生産なく
して諸方に徘徊する者」の
該当者として「拘留29日」
を即決し、検束した世田谷
警察署へ留置したのである。

 家主に対し検束直後「朴烈
はもう還らない。永久に還ら
ないかも知れないから、家を
引き取って他の人に貸した方
がよい」といって朴烈君の住
所を失却せしめ、家財道具等
を警察官立会の上で勝ってに
処分させた、一定の住所無き
ものとして警察犯処罰令を適
用>。

 この警察犯処罰令というのも
警察署長またはその代理人が判
決を出せる人権蹂躙の弾圧法。

 そして10月20日に治安警察法
第14条「秘密ノ結社ハ之ヲ禁ス」
で予審起訴、市谷刑務所に収容。
翌1924年2月5日に公判に付し、
15日には爆発物取締罰則で
追起訴。

 1925年10月12日、検事総長
小山は刑法73条で大審院に付
すべきという意見書を提出。
 まさに有事の際の「保護」から
「大逆罪」まで一直線につなげた
弾圧であった。

 刑法73条は1908年10月より
実施、1947年現刑法より削除。

「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、
皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加
ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ
処ス」。「加ヘントシタル者ハ死
刑」と未遂でも大日本帝国憲法の
核心である天皇(一家)への「危
害」意志をも極刑で裁こうとした。
故に制定後に適用された四つの事
件のうち、幸徳事件、金子文子・
朴烈事件の二つは現実には「危害」
の行為はなく、大逆罪を拡大解釈
したフレームアップ弾圧である。


 


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