パンの略取

パンの略取奥付

    アナキズム文献翻訳事始め 


     一冊の古い書物を所蔵している。印刷され配布されてから
    90年の年数を経ている。

     表紙は厚手の上質紙で本来は白であったのかクリーム色で
    あったか判然としない。

     最初の所有者が入手してから読み込まれ長い歳月を耐え抜
    いた痕跡が薄い焦げ
    茶色に変色した表紙に現れている。本文
    頁の余白上部には「明治42年?月」読み始め
    の月日が記され
    ている。何番めかの所有者かは不明だが蔵書印も押されてあ
    る。  


     この書物自体のたどった経過も大いに関心を引くが、英語
    版原本から翻訳した人物
    は時の国家権力により絞首台に送り
    込まれた叛逆の思想の体現者であった。  


     表紙には『麺麭の略取』、クロポトキン著、平民者訳とし
    か記されていない。


     なによりも訳者名を平民社訳とせざるを得なかった当時の
    出版状況は厳しいもので
    あった。  

     最初の出版から60年を経て岩波文庫の一冊として初めて単
    行本として刊行された
    時に訳者名が幸徳秋水と著わされた。  

     クロポトキンの著作は当時、大杉栄、大石誠之介も部分的に
    訳していたが一冊の書
    物としてまとめられ、出版されたのは、
    この「明治」43年1月31日刊平民社版が最初で
    あった。  
     

     この地理としては日本列島と呼称される地域で革命思想としての
    無政府主義が意識
    され、運動の潮流として形造られ始めた時期は、
    1906年から08年といえるだろう。  

     その中心人物が幸徳秋水であり、この『麺麭の略取』の翻訳が無
    政府主義の考えが広
    がることに大きな力をもっている。

     坂本清馬は「『麺麭の略取』刊行者としての思い出」で
    語っている。

    「12月の半ばであったカ、ハッキリ覚えていないが『麺麭の略取』の
    秘密印刷
    が出来たという通知があったので、或夜それを受取りに行った。

     平民社の門のすぐ前の巣
    鴨監獄の看守宅で、3名(2名は秋水、1人
    は私)の尾行が泊まり込みで見張っているので、
    家を出て帰るまで彼らに
    絶対に感知されないように行動するのは、並大抵の苦労ではなか
    った。そ
    れが数日続いた。」

    「麺麭の略取と正進会」『アナキストクラブ』綿引邦農夫

    「まず、
    大正八年十月ごろ、布留川桂は、かねて知っている元園町の堺利
    彦宅からクロポトキン著・
    幸徳秋水訳『麺麭の略取』一本を手に入れてき
    て、当時正進会中での能筆家、小林進次郎
    君(のちに同志数名と労働者と
    して最初のソビエトロシア入りをした、現在も植字工として働い
    ている)
    に、これの複写をすることを頼んだ。当時、活動的な組合員の大部分は文
    選工なので、
    これを採字して活版化し大量に流すことはお手のものだが、
    いずれもその筋の要視察者とされ
    ている連中なので、目につきやすい活版
    化、謄写版化の方法をさけて、わざと非能率的な複
    写によることにした。
    しかし、これはかえって有効であった。」  


     うすでの丈夫な日本紙の間にタンサン紙をはさみ、これを六枚かさねて書
    いたのだが、上部は
    傷がつき、下部は写りがわるく、結局中の三、四枚がも
    のになる。この仕事は容易ではなかった
    が、かれの旺盛な闘志は、一冊大体
    三十四字詰め、二十四行、百九十四枚のぼう大なものを
    一回二十日ないし一
    カ月かかって仕上げ、一年余のあいだにおよそ十回は繰り返したろう…

    と本人もいっている。

     これを二円で分け合ったのだが、材料費にもあたらない。
    これがさらに、各
    社の熱心な人々によって複写され、極秘のうちに社内に配られた。
    この方法は、
    震災後の大正十三年ごろまで続けられた。  
     このほか、大正十年ごろ本物の活字本
    が十余冊某所から入ってきたので、そ
    の全部を合算すれば、おそらく百部以上行き渡ったことと思
    う。それがただ読
    むだけでなく、各社内で筆写を中心にさかんに討議がおこなわれるようになっ
    た。  

     大正九年四月には、機関紙『正進』を創刊した。その紙上には、はやくもク
    ロポトキンの学説が載
    せられている。  
     わずか、五百人に充たない組合に百部が渡っとするとざっと五人に一冊ずつ
    が渡
    ったことになる。  

     大正八年十二月九日に産声をあげた正進会は、翌九年四月信友会と提携して、
    労働組合による
    日本最初のメーデーを発企、実行し、また革新会の要求した八
    時間二部制、最低賃金制、月四回
    公休の公的実行を新聞資本家側に執拗、果敢
    に要求し、九年九月には報知新聞社でケース転覆
    事件をひき起こした。

     略  

     大正十年ごろの夏のあるむし暑い夕方「今夜行くところがあるから定時に

    ないか、あとで話すから…」という連絡があった。おち合った仲間が十人か、
    それ以上だったかはっ
    きり覚えていない。どこへ?と聞いたら「番衆町」とだ
    け、それを答えたのは諏訪与三郎だったか、布
    留川桂だったか、それとも他の
    人だったか忘れた。いつもだったら、どこの誰のところへ何しに、とい
    うのに、
    この時に限って詳しいことはいっさい分からないまま、新宿行きの市電に乗っ
    た。  

     
     下車して、右へ曲がったか、左へ曲がったか忘れたが、六、七分も歩いたか
    と思う。番衆町のその家
    というのは、夜目にも広大な家で、植え込みをとおし
    て見える庭の中央には、はだか電気がついて土俵
    らしいものがあり、その光が
    はるか先まで届いていた。  

     広い書院のような座敷には刀掛けなどもあり、
    すでに先客が十人くらいは、
    いたように記憶している。その中に大杉のいたことは確かだと思うが、ほか

    誰と誰ということは、どうしても今は思い出せない。

     また、そこでどんな話が交わされたのか、その内容

    もすっかり忘れてしまった。  

     しばらくして、隅の方から二、三の人が本らしいものを持ってきて一人一人
    に配ってくれた。それがなん
    と『麺麭の略取』であった。
     むろん私ももらった。まさかこの夜、ここで、この『麺麭の略取』にお目に
    かかれ
    るなどとは夢にも思わなかった。そのうれしさは、また格別だった。

     当時仲間では本物の『パン略』は発禁
    や押収などでほとんどないし、あった
    としても高くて、とても手に入る代物ではないというのが常識だったの
    だから
    …。
     たぶん二円だったと記憶するが、持ち合わせのないものは、後で支払うとい
    うことで、とにかく待
    望の『麺麭の略取』 の何冊かに思いもかけず、お目にか
    かることができた。そのことだけで頭がいっぱいに
    なったためか当夜のほかの
    ことは皆目忘れてしまった。  

     以上のようなわけで、四十年前に忽然と大量の
    『パン略』が正進会員の間に
    入ってきたのだが、前に書いたように、その経路が極秘にされていたので、

    もって私はあの家のことがナゾとなっている。  

     ところが、たまたま、1960年7月発行の
    『労働運動史研究』の大逆事件特集
    号を読んだところ小松隆二君が補論という題で、
    近藤さんから聞いた話として、
    つぎのような特に私の注目を引く記事が載っている。  


    <大正十年ごろだそうですが、三月ごろのある日、近藤さんが堺利彦を訪れたと
    ころ、
    堺に「どうも、今日あたり、うちの手入れがあるらしい。そうだ、ちょっ
    と厄介なものが家にある。
    それを外に持ち出してもらえないだろうか」
    という話をもちかけられた。

     そこで、ともかく近藤さんがそれを外に運び出す役を負うことになった。その
    厄介なものというのは、
    発禁になっている『麺麭の略取』のことで、その全部が
    全部、明治41年末以来、
    ずっと堺家にあったのではなく、方々に隠しておいたも
    のが、その頃には堺家に
    集められていたものらしいですが、およそ50冊くらいあ
    ったそうです。


     その運び出し方というのが面白く、その日、近藤さんは尾行をまいて堺家に行
    っていたので、
    まず、近藤さんが帰るふりをして外へ出る。その後、堺利彦が自
    身の尾行を連れて散歩に出て、
    堺家から尾行の監視の眼を取り去ってしまった。

    しばらくして先に出た近藤さんが人力車でそこへ乗り込み、四、五十冊の『麺麭
    の略取』を
    その車に積んで持ち出した。しかも念には念をいれて、堺家を出てか
    ら途中(靖国神社あたり)で
    車を乗り換えたりの苦労をして、全然気づかれずに
    運び出しに成功した。


     それからその『麺麭の略取』を堺さんと相談して、一部二円で正進、信友の外
    部にもらさないような信頼の
    おける人に頒布した。  


     これがおそらく、明治41年末に半ば秘密出版のかたちで刊行され、発売、頒布
    禁止になった『パン略』を
    まとめて処分した最後であろうと思われる一つのエピ
    ソードです。>  
     

     このことは、まだ直接、近藤さんに聞いてみないので、たしかなことはわから
    ないが、
    どうも私の前に書いたのと同一のことのように思われる。  
     おそらく近藤さんもこの発表が初めてであろうし、私もまだ誰にも口外してい
    ない。  

     しかし、正進会員の大部分は下町に住んでいたので、この本物の『麺麭の略取』
    は、
    偉大な役割を果たしながらも大正12年9月1日の大震災で焼いてしまった。

     


    『大逆事件を生きる』坂本清馬自伝

    「『経済組織の未来』ほか 幸徳秋水とアナキズム」小松隆二

     

    「幸徳秋水と私」坂本清馬 『幸徳全集』付録冊子

    「『麺麭の略取』刊行者としての思い出」坂本清馬   

     わたしが寺の町、橋の町ともいうべき水都広島から東京に帰って、

    巣鴨平民社に行ったのは、明治41年11月の初めであった。

    …それから最も困難で且つ最も重大な秘密出版もやるという風に、

    文字通り寝食を忘れた猛活動であった。 「12月の半ばであったか、

    ハッキリ覚えていないが『麺麭の略取』の秘密印刷が出来たという通知が

    あったので、或夜それを受取りに行った。

    平民社の門のすぐ前の巣鴨監獄の看守宅で、3名(2名は秋水、1人は私)の

    尾行が泊まり込みで見張っているので、家を出て帰るまで彼らに絶対に

    感知されないように行動するのは、並大抵の苦労ではなかった。それが

    数回続いた。」

    「こういう風にして、麹町三番町のある金持ち

    (多分先生の友人の小島竜太郎さんであように思う)の妾宅の倉庫に隠してあ
    る製本を、
    毎夜少しずつ取りに行ったり、昼間は市内や府下数カ所の郵便局に
    発送しに行ったりして、
    常に渾信身是れ眼といったような緊張した細心の警戒
    と不撓不屈の
    努力とを尽くして行動したので、平民社のすぐ眼と鼻のさきに

    昼夜張り込んでいる三人の尾行巡査や、

    いつやって来るか分からない同志の面を被ったスパイの封鎖網を潜って、

    地方同志に予約販売をし、米国同志、及びロンドン図書館等に寄贈して、

    完全にその目的を達成し得たのは、わたし一人が全身全力をこれに傾倒して、

    殆ど不眠不休の活動を続けたのに因ることは勿論であるが、

    戸恒、榎、管野、神川など、在京同志が、皆熱心にわたしの活動を直接間接に

    援助してくれたお陰であった。中島寿馬君は、中央郵便局からロンドンの

    大英博物館へ送ってくれたりした。しかも現在生きているものは、中島だけで
    ある。」

     英文原書は赤い羽二重のような絹表紙で、本は、非常に軽い、

    綿を引き延ばしたようなやわらかい紙に印刷した、

    厚さが二寸くらいの菊版の美しい書籍であった。訳者は幸徳伝次郎であったが、

    奥付けは平民社訳、代表者坂本清馬としてあった。それは、

    「幸徳先生が入獄するようになると第一健康が気遣われるし、また全国の革命運
    動を
    指導するのに都合が悪い」という二、三同志の意見があったので

    「じゃ僕が入獄るようにしよう。そうすれば都合がよかろうし、僕も獄中で勉強
    ができるし、
    一挙両得だから、僕が全責任をもって、飽くまでも秘密出版で押し
    通そう」
    ということに決定したからであった。  


     処がどういう魔がさしたものか、また誰と話し合ったものか、
    突然先生が「既
    に発送して了って目的を達したのだから、
    届けて見ようじゃないか」といい出し
    た。  …  

    わたしは不満あったが、已むを得ず一月下旬内務省に本を添えて届出をした。  

    …  
    わたしが届出をすると、翌日警部と刑事がやって来て、一応わたしを訊問をして
    後、

    「原本と訳本とを頂いてゆきます」というから、

    「訳本はもう二十冊位しか残っていないのです。(註、わざと残してあった)

    不審に思えば御自由に捜して下さい。

    原本の英文書は、丸善でも教文館でも売っている本ですから、

    これを没収して来い、という御命令ではないのでしょう」というと、

    押し入れの中から訳本を二十冊ばかり持って帰った。

    或いは十冊から十四、五冊であったかも知れない。  

    間もなく、わたしは出版法違反で起訴された。

    公判廷で判事が「幸徳伝次郎が訳したのではないか」と訊問するから、

    わたしは「この本の或る章は幸徳先生が訳したのもあり、

    また大杉君が訳したのもありますが、この本そのものはわたくしが訳したもの
    であります。
    だから、わたくしが発行責任者となっています。

    平民社訳としてあるのは、名もないわたくしの訳としては売れないおそれがあ
    るからであります。

    尤も両人の訳文を参考にはしてありますが」と答弁した。

    結局、罰金三十円の判決を受けたが、

    それはわたしが管野須賀子のことで先生と絶好して平民社を去った後のことで、

    罰金は管野を通して先生から受け取って完納した。

    これが『麺麭の略取』の秘密出版の真実の経緯である。  
     

     スパイの「社会主義者沿革」二巻の19にはこの裁判を次のように報告してある。

    「…幸徳伝次郎は…上京以来種々奔走せしも、何処にても該出版物の到底安全に

    発行し得られざるものなることを看破し、其の原稿を買受くるものなきを以て、

    已むなく坂本清馬を代表に充て、自己経営に係る『平民社』名儀を以て之を発行せ
    んとせしが、
    安寧秩序を妨害するものとして禁止及差押の処分に付せられたり。

    (明治42年2月1日告示第15号参照)
     

     然るに其正規の届出を為す以前、既に之を発売頒布せし事実あり。

    坂本清馬は之が為42年3月9日東京地方裁判所に於て出版法違反に依り罰金30円
    に処せらる」  

    このスパイの記録の中に記されてある

    「幸徳伝次郎は…クロポトキン原著『麺麦の略取』と称する出版物を発行せんとし、

    上京以来種々奔走せしも、

    (註、当時わたしはまだ23歳の浅学菲才の青年で、且つ先生の書生であったから

    出版費造成に就いては、先生に対して何等発言したことはなく、また先生が金策に
    ついて
    わたしに相談する筈もないのであったが、出版そのものについては、

    わたしと一応話し合って原稿を売るために書店に交渉していると、

    どうかしてスパイに探知されるかも知れないから、

    どこまでも自費出版でやるということに決定していたから、このスパイ記録に書い
    てあるように

    「其の原稿を買受くるものなきを以て、已むなく坂本清馬を代表に充て」て

    秘密出版をしたというような事実ではなかったのである)……

    其の原稿を買受くるものなきを以て、已むなく坂本清馬を代表に充て、

    自己経営に係る『平民社』名儀を以て之を発行せんとせしが、安寧秩序を妨害する
    ものとして
    禁止及差押の処分に付せられたり」という文句だけを見ると、いかにも
    この秘密出
    版が印刷中、もしくは販売中に、探知されて、禁止及び差押えの処分を
    受けたように聞こえるが、

    実際は上に述べたような事実であって、われわれが既に秘密出版の目的を達して後
    に、
    わたしたちは「内閣の弾圧がひどいから秘密出版をして、既に殆ど全部売って
    了いました。


     これだけ貴方たちに差上げるために残してありますから、すぐ取に来て下さい」
    と、
    いわんばかりに、二十冊だけ残してあったのである。しかも最初の決定に反し
    届出をしたからこそ分かったのであって、万一届出をしなかったならば、永久に
    発覚せず、
    発覚しても時効にかかっていたかも知れないのであったから、この戦い
    はわれわれの勝であった。  


     ここに、わたしが今でも満足していることは、この『社会主義者沿革』には、

    わたしが、「罰金30円に処せら」れたという事後の裁判結果のみを記してあって、

    わたしが、秘密出版をするために苦労した活動そのものについては、門前の三人の
    尾行巡査は勿論、警視庁も警保局も、全然探知し得なかったことである。

     

    註 印刷日は、明治42年1月25日であり、発行日は1月30日であったから、

    届出は多分1月28日頃ではなかったかと思う。何故かといえば、1月29日付けで

    「出版法第19条による発売頒布禁止、刻版並印本差押処分」の公文書を持て、

    警部が刑事を連れて巣鴨平民社へ差押えにやって来たことが、最近分かったからで
    ある。 

     

    1960年2月26日夜、於東京記す『文庫』1960年4月号 

    1998年10月21日メモ
    1999.2.28