近世無政府主義中扉

イ・キョンソクさんの論文をご本人がテキストデータアップしたと推測できますが2004年のブログから転載。イ・キュョンソクさんご連絡頂けますか。

平民社における階級と民族―亜洲和親会との関連を中心に―

早稲田大学   

《 目 次 》

 はじめに

一 平民社における階級と民族

二 亜洲和親会の創立

三 朝鮮側の参加問題―趙素昂の場合―

 むすびに 


はじめに

 七博士の建白や対露同志会などが政府の軟弱外交を批判し対露強硬論を唱えるなか、それまで日露非戦論を主張していた『万朝報』が一〇月八日の社説に「戦争は避く可からざる乎」を載せ主戦論に転じた。この決定に反対した幸徳秋水と堺利彦は一二日の『万朝報』に「退社の辞」を掲げて辞職し、二七日に平民社を設立、一一月一五日には『平民新聞』を創刊して、「平民主義・社会主義・平和主義」の合法的実践によって「自由・平等・博愛」の理念を完うすることを宣言した。

 平民社設立の直接の契機となった非戦論の性格については、一九〇四年一月一七日発刊の『平民新聞』第一〇号を境にして質的な変化があったという指摘がある。

 すなわち、それ以前の平民社同人たちの非戦論は無抵抗主義・世界主義の論理に立った「人道主義的な非戦論」であり、階級的な視点が欠如していたと言う。

 このような評価は、平民社の非戦論のみならず、幸徳秋水の『廿世紀之怪物帝国主義』や、日本における初期社会主義の理論全般に対しても行われてきた。

 この見方は戦後の歴史学界の主流であったが、ここには「空想より科学へ」というマルクス・レーニン主義を正統とする事後的な観点が投影されている。

 これとは逆に、日本の社会主義は黎明期においてすでに「直輸入型の傾向」があり、これは単に明治末期の社会主義思想のみならずコミンテルン時代においても同様の問題があったという批判がある。すなわち、その初めから階級論に偏り民族という要素を欠いていたというのである。

 この観点は、マルクス・レーニン主義の民族理論を批判してはいるが、その反動で自らがイデオロギーに拘束され事実を見そこなっている。ポスト冷戦の今日このような認識は修正を迫られている。

 空想か科学かという直線的な進化論の図式、あるいはそれに対する条件反射的な批判では、アジアの近代を正確に捉えられず、近代の負の遺産を内側から克服することはできない。

 平民社と亜洲和親会における非戦論から民族解放論への展開は、欧州とアジア、日本とアジアの社会主義の異同を示すものとして、「直輸入型」や「空想的」というレッテルを拒否し、新たな評価を待っているように見える。「幸徳や堺の行動に羨望の情」を抱いて平民社に合流したという石川三四郎は、当時をこう回想する。

「あの黎明期における混沌の中に、高いヒューマニズムの精神に徹していた点は、今も忘れることの出来ない美しさでありました。

・・・日本の社会思潮の上から見れば、あの平民社の生活は、汲めども、汲めども、滾々として汲みつくすことのできない、清冽な泉にも喩えられるべきでしょう」と。黎明期であればこそそこには様々な可能性が潜められていたと思われる。

 そして、黎明期における日本及びアジアの社会主義は、二〇世紀初頭のアジアという歴史的条件の下で、その内容を展開していったのである。とくに、アジアにおける社会主義の受容は民族問題と切り離せない側面をもっている。

 近代アジアにおいてはいかなる思想も民族問題から自由ではあり得なかった。アジアといっても、日清・日露戦争を経て資本主義を逸早く振起させ帝国主義への道を走り始めた日本と、植民地的危機に直面した他のアジア諸国においては、その内容が異なる。

 一九〇七年前後の東京において日本の初期社会主義者たちは、アジア各国からの革命家に社会主義を伝播する一方、彼らから帝国主義の現実と半植民地民衆の要求を汲みとることによって、理論の教条化を防ぎ実践との間の緊張感を保ち得たのである。

 このような観点から本稿では、欧州社会主義と比べ平民社における民族論にはいかなる特徴があったのか、そして、平民社と亜洲和親会は互いにどう影響し合ったのかを検討する。そのさい、これまで否定されてきた亜洲和親会への朝鮮側の参加問題をとりあげてみたい。

 
一 平民社における民族問題平民社と時を同じくしてあるいはそれ以前に欧州では民族問題をめぐる重要な論争が行われたが、『平民新聞』の紙上には、第二インターナショナルの各大会における議論が紹介されているほか、民族問題に関する論争が本格的にとりあげられてはいない。

 とくに、カール・カウツキーのように商品の生産や取引のため民族の形成が促されたという、民族を近代資本主義の所産とする認識は見られない。しばしば指摘されることであるが、幸徳秋水の『廿世紀之怪物帝国主義』(一九〇一年)においては、帝国主義を倫理的な観点から見る視覚と階級的観点から見る視覚が混在していたが、社会主義の理論的深化とともに、前者の観点がなくなり後者に収斂していく。 

 一九〇四年六月一九日『週刊平民新聞』に無署名で掲げられた「敬愛なる朝鮮」は、「朝鮮をして永遠の屈辱より超脱せしむる、只だ一途あることを自覚するならん、『国家的観念の否認』即ち是れ也」とし、一九〇五年七月一六日『直言』に載った「仁川歌舞伎座より」は、「憐むべき愛蘭人よ、汝が虚偽なる愛国心を捨ててゝ」資本主義を打倒するとき、「汝は初めて多年汝の国の歴史を形勢せる不幸より脱出して正路に進み得」べしと述べる。晩年のマルクスがすでにイギリスにおける革命の発火点としてアイルランド人の民族的蜂起を促してから数十年、そしてカウツキーが近代資本主義の発展にともなう経済的必然性の側面から民族を強調してから十数年が経過した時点においてもなお、単純に民族を階級闘争の阻害要素として敬遠している様子が窺われる。この時期の『平民新聞』に見える民族問題に関する論調は、一方では、帝国主義・軍国主義を一貫して批判し朝鮮及びアジアの民族運動に理解を示しながらも、他方では、労働階級の解放による抑圧の排除という社会主義の革命論理が並行しており、そこには、民族を近代資本主義の所産とする認識は表れていない。

 同じく、一九〇七年七月二一日『大阪平民新聞』と『社会新聞』に掲げられた「東京社会主義有志者決議」は、「吾人は朝鮮人民の自由、独立、自治の権利を尊重し之に対する帝国主義的政策は万国平民階級共通の利益に反対するものと認む、故に日本政府は朝鮮の独立を保証すべき言責に忠実ならんことを望む」と謳いあげた。これはあくまでも「平民階級共通の利益」に反しない限りにおいて一民族の解放が論じたれており、理論的にはそれ以前の個別の論調と同様であるが、直接行動派と議会政策派の両方の機関紙に「決議」の形式で表明されたところに大きな意義が認められる。というのは、当時理論的に対立していた両側が一同に「決議」を行った背景に、アジアの革命家とくに朝鮮人らの抗議と要求があったと見られるからである。この時期はまさに、平民社の人々とアジア各国の革命家たちが交流し、亜洲和親会を創立しようとしていたときである。そして、日本の初期社会主義者たちの民族と階級に関する認識は、アジア各国からの革命家らに社会主義を伝播する過程で、半植民地民衆の要求を汲みとることによって、理解を深めていくのである。 


二 亜洲和親会の創立アジア各国からきた革命家らの認識は、一九〇七年初め章炳麟を追って妻の何震と共に渡日し『民報』の総編集を担当していた劉師培の「亜洲現勢論」に端的に示されている。彼は、今や「日本はアジアにおいて、朝鮮の敵であるだけではない。同時にインド、安南、中国、フィリピンの共通の敵である」と、日本を帝国主義陣営の一国として明確に認識し、「日本の各政党がつくった日清・日韓・日印の各協会各公司は自国の勢力を拡張することを目的とするものだ、つまりそれらは我々の公敵でこそあれ、大同主義と同じものではない」と、既存のアジア主義的諸団体及び日本政府は、「アジアの公敵」であると規定する。そして、アジアの「諸弱種が連合すれば、必ず強権を排除する能力をもつことができる」と、相互間の緊密な連帯を主張するが、そのさい日本側の連帯の相手は、既存のアジア主義的団体ではなく、反帝国主義と反軍事主義に徹する社会主義や無政府主義者に求めているのである。

 一方、一九〇六年六月アメリカから戻った幸徳秋水は、翌年一月一五日創刊した日刊『平民新聞』紙上で、中国革命につき、「武昌における多数の革命党員は捕縛せられたるが、その多くは日本に留学したる青年にして、今や東京は革命党の本部と認められ、湖広総督張之洞は之が検挙に全力を尽しつゝあり・・・清国の革命運動は鎮圧によりてかへつて速かに激発さるるなるべし」と述べ、その三ヶ月後には、「支那の革命主義者らが、日本の社会運動者と握手提携する時期は遠くはあるまい。欧洲全体の社会党はほとんど一体となって働いているごとく、東洋各国の社会党もまた一体となり、進んで世界に推し及ぼさねばならぬ」と、連帯に期待を寄せていた。また、幸徳は一九〇七年六月一日付「協商の意義」において、アジア主義的諸団体の支那保全論を批判している。そして、一九〇七年七月二一日「東京社会主義有志者決議」が掲載された。かかる状況下に、アジア各国の革命家たちは、既存のアジア主義的団体の所謂「朝鮮独立論」や「支那保全論」の欺瞞性が明るみになるにつれて、現状認識を同じくする幸徳秋水ら直接行動派に急接近するようになる。

 直接行動派と同盟会左派の接触については、まず北一輝によって張継が幸徳に紹介され、その後、明治四十年春四月頃、章炳麟・劉光漢・何震が、張継に案内され大久保百人町に幸徳を訪ねて来たと、坂本清場は回想している。そして両者の関係は深まって、章炳麟らが幸徳らの金曜講演会に参加するようになり、また独自の社会主義講習会をつくって、一九〇七年八月三一日には、第一回大会を牛込赤城元町清風亭にて開催するに至った。

 同会は一二月二二日の八回大会までが何震が発行した『天義』に記録され、翌年四月一二日からは「斉民社」に改名されて、六月一四日の第五回大会までが『衡報』に確認されている。同会は、張継や劉師培らによって主導されたが、他のアジア諸国の革命家や留学生が多数参加していた。そして、「社会主義講習会」と時を同じくして、日本政府及び既存のアジア主義的諸団体の帝国主義的属性を明確に批判しアジア民族解放のための相互扶助を謳った、「亜洲和親会」の創立が進められた。会の創立及び活動に関して、以下では、現在確認できる大杉栄、堺利彦、潘佩珠、竹内善作、陶冶公ら五人の回顧を比較して論じることにする。竹内善作によれば、亜洲和親会は、「明治四十年の夏頃から会合の催されるようになつ」て、「その秋に章炳麟の筆になる宣言書が発表され」、第一回は、青山のインディアン・ハウス(インド留学生合宿所)で開かれ、中国の同志、ミスター・デーを中心とする印度の同志、日本の社会主義者(堺利彦・大杉栄・守田有秋)が参加した。第二回は、九段下のユニテリアン協会で開かれ、王族クアン・デを含む安南の革命党員やフィリピンの同志が加勢し、日本の社会主義者としては、堺利彦・森近運平・大杉栄・竹内本人が参加した。会の「約章」を見ると、その前文に「僕等ここに鑒み則ち亜洲和親会を建て、以て帝国主義に反対し・・・先ず印度・支那の二国を以て組織し会を成す。・・・一切の亜洲民族の独立主義を抱く者にして玉趾を歩むを願うあらば、共に誓盟を結べば則ち馨香祷祝以て之を迎うるもの也」と記し、反帝独立のため中国・印度を中心に会が進められアジア各国に連帯を呼びかける様子が窺えるが、「組織」の項には、「毎月聚会一次たる」こととともに、総部を東京に設き「支那、孟買、朝鮮、菲律賓、安南、英国等の処は、函件を収発するに皆定処を得しむ」と、諸国に分会を置くことを規定している。また、「宗旨」に、「本会の宗旨は帝国主義に反抗するに在り。

 亜洲の已に主権を失せる民族をして各独立を得しむるを期す」とし、「会員」の規定に、「凡そ亜洲人にして、侵略主義を主張する者を除き、民族主義、共和主義、社会主義、無政府主義を論ずること無く、皆入会することを得」と、主義の如何を問わず、反帝国主義・反侵略主義の統一戦線を目指すことを謳っている。そして、「義務」第一条に、「亜州諸国、或は外人侵食の魚肉と為り、或は異族支配の傭奴と為る。・・・故に本会の義務、当に相互扶助を以て各独立自由を得しむを以て旨と為す」。

 第二条に、「亜洲諸国、若し一国に革命の事有らば、余国の同会者は応に相互協助すべし。直接間接を論ぜず、総て功能の及ぶ所を以て限と為す」とし、独立と自由のための連帯を主要な義務としている。約章のなかにある「相互扶助」の語は、明らかに無政府主義の進化理論を土台にしたものであることが看取されよう。これは、スペンサーの社会進化論に対するアンチ・テーゼとして、クロポトキンによって出された『相互扶助論』の影響であることは言うまでもない。

 しかし、亜洲和親会は無政府主義の影響をうけながらも、約章に見えるように、帝国主義に断固反対し、被圧迫アジア諸民族の独立のための連帯を、前面に押し出している。実際大杉栄は、章炳麟を無政府主義者ではなく民族主義者と見なしており、参加インド人に対しても共和主義者であるという認識をもっていた。

 つまり、会は、竹内善作が、「ゆく  はアジア連邦を結成しよう」というのが会の主張であったと述懐し、劉師倍の「亜洲現勢論」や章炳麟の「五無」論にもよく示されているように、その究極目標を無政府主義或はアジア連邦においていたが、その会員は当面の目的である民族独立に賛成するならば、共和・民族主義を問わず参加が要求されていたのである。しかし、直接行動派が国内的弾圧に壊滅されていくのと同時期に、亜洲和親会は国際的な帝国主義の包囲網のなかで、中心会員の多くが国外追放などにより、日本における運動の拠点を失い、政治勢力として大きな影響力を及ぼすには至らなかった。

 大杉は、「すでに二、三回の会合を遂げて、まさに諸種の活動に移らんとしていたのであったが、例の赤旗時件のために日本の同志は投獄され、次いで支那およびインドの同志も日本政府の強圧に余儀なくされて各地に離散し、ついに何等の効果をも挙げることができずに解散してしまった」と、述懐している。

 すなわち、一九〇八年一月十七日の金曜講演会における所謂屋上演説事件、さらに、六月二二日の赤旗事件によって、多くが刑に服することになって打撃を被った。そして、屋上演説事件に係累して張継は離日を余儀なくされ、章炳鱗は新聞紙条例違反の廉で告訴されるなど、『日本平民新聞』『衡報』『民報』『天義』『雲南』などの機関紙誌は相次いで停・廃刊に追い込まれた。

 また、一九〇九年初め以降は、フランス当局の要請を受けた日本政府の在日ベトナム人に対する直接干渉が開始され、三月八日潘佩珠は横浜から退去せざるを得なかった。このようにして、亜洲和親会は一年たらずで幕をおろすこととなるが、植民地解放運動におけるその意義は画期的なものであった。 


三 朝鮮側の参加問題―趙素昂の場合― 

1)朝鮮側の参加問題 竹内善作の回想が残した問題のひとつは、「朝鮮の人々はこれに当時参加しなかつた」と語り、第二回会合のさい中国の同志から聞いた話として、「日本人が出席するならばわれわれは出席しない、という建前をとつておつた」と、述懐している点である。しかも、竹内は、第二回会合には、中国・印度・安南・フィリッピンの同志は出席したが、「不幸にして朝鮮の人々は一人も見えなかつた」と、再度念を押している。 

 従来はこの竹内の回想にのみ依拠し、朝鮮側の同会への参加は否定されてきた。一方、竹内善作の回想とは違って、潘佩珠の場合、『獄中書』(一九一三年)と、『潘佩珠年表』(一九三六年推定)のなかで、参加国の一つに「朝鮮」を挙げ、とくに後者においては、日本の平民党と中国・印度・菲律賓の革命家の他に、「朝鮮の」が参加したと、個人名までを明示している。

 この潘佩珠の回想に基き、白石昌也氏は、亜洲和親会の約章が「朝鮮」にも支部設置を規定している点、竹内善作自身が同会の目的を「中国、インド、安南、フィリピン、ビルマ、馬來、朝鮮、日本の各国の革命党を網羅する」ところにあったと述べている点、劉師倍の「亜洲現勢論」や幸徳秋水の「病間放言」などに朝鮮の活動家に関する期待が述べられている点などに触れ、同会に「朝鮮人の参加の予期されていたことは明らかであり」「恐らく朝鮮人は何らかの形で、この会に関与していた」と見ていた。 

 その後、冨田昇氏によって大杉栄と堺利彦の回想が紹介されたが、両人の回想のなかに朝鮮側の参加を記した個所がある。すなわち、大杉は、「日本、支那、朝鮮、安南、フィリッピン、インド等の同志が相謀って、亜洲和親会を設立した」と記し、堺も、章炳麟・張継・劉光漢らシナの革命家を中心に「インド人、安南人、朝鮮人などを加え、東洋各国革命主義者の集会を催した」と述懐している。

 このように、竹内・大杉・堺・潘佩珠の回想は、共通して「日本・支那・印度・安南」をあげているが、竹内のみが、朝鮮側について不参加及び第二集会における不出席を明言していることを、どう解すべきか。まず、同件に関する竹内の回想は中国の同志からの伝聞であること、しかも、「日本人が出席するなら」という条件を提示し、「建前をとつておつた」ことなどは、まったく別の解釈が可能になる。要するに、竹内の回想は、朝鮮側は少なくとも中国側とは密接に連絡を取り合っていたこと、しかも、条件を突きつけ欠席を仄めかすほど同会に深く関わっていたことを、却って示唆している。

 また、堺がフィリピンをあげないのを除けば、朝鮮以外の参加国名については四人の回想が一致していることは、朝鮮の参加を明記している他の三人の回想がより正確である可能性を高めている。 


2)趙素昂の場合 

 次に、潘佩珠のみが「趙素昂」の名を明示していることをどう解すべきか。他の関係者が沈黙する限り、この点を解明するためには、素昂の日本での活動を分析する他ない。趙素昂(一八八七~一九五八)に関しては韓国内に「三均学会」を中心に活発な研究が行われているが、会の名称が示す通り論議は、一九三〇年代に理論化された素昂の「三均主義」が主となっている。素昂は、一九〇四年日本に留学し、一九一二年帰郷、そして翌年上海に亡命している。

 あまり研究が進んでいなかった彼の日本留学時代の軌跡について、近年注目すべき研究成果が出されたが、日本の社会主義者やアジアの革命家との交流、そして亜洲和親会へ参加した可能性などに関する分析はなされていない。素昂は「三均主義」を、「個人と個人、民族と民族、国家と国家の関係を均等ならしめる主義」として、個人間には政治・経済・教育の均等化、すなわち普通選挙・土地及び重要産業の国有化・義務教育を規定し、民族間には民族自決の原則を弱小民族にも適用し、国家間には帝国主義を打破し戦争行為を禁止して平等な国際関係を発展させ遂には四海一家と世界一元となることを究極の目標とする、ものと規定する。この「三均主義」は、一九三〇年以後朝鮮の主要な左右合作及び民族独立運動組織の合同運動毎に指針として採択され、韓国臨時政府の綱領ともなった。この三均主義の定立過程を究明するなかで、洪善憙氏は、素昂の思想的背景となったものに、三民主義、大同思想、無政府主義、社会主義、六聖教、理気説を挙げているが、素昂が社会主義や無政府主義を東京留学中に受容した可能性は否定している。

 同氏は、素昂が無政府主義の影響をうけた時期について、一九一九年六月から二一年一二月におけるヨーロッパ歴訪期間であるとし、社会主義の影響については、とりわけ同期間中のイギリス労働党への共感を重視している。

 しかし、同期間中に素昂が訪問したのはヨーロッパの社会民主党の各政党とソヴィエト連邦であり、このとき素昂が無政府主義の影響をうけたことを示す史料は存在しない。さて、素昂の日本留学記録である『東遊略抄』には、留学中の素昂が無政府主義に興味を示し、中国の留学生とも交流していたことを窺わせている。

 まず、一九〇七年二月二日条には、「冊肆に往きて無政府主義一巻を買って来たる」とある。素昂が購入した『無政府主義』の冊子は、一九〇六年十一月に出た久津見忠息(蕨村)の著作である可能性が高いが、その発売元は他ならぬ平民書房であった。

『東遊略抄』における彼の思想を再構成してみると、立憲君主制から共和制へ移行する様子が窺われるが、まだ社会主義の影響は見出せない。ただ、彼が何らかの契機で無政府主義に興味を抱いて、平民書房発行の冊子を買い、しかもその時点が一九〇七年二月であることは注目に値する。当時はまさに日本の社会主義が議会政策派と直接行動派に分岐する時点であり、アジアの革命家たちと直接行動派がまもなく接触を始めようとしていた時期であった。ただ、亜洲和親会に集まった人は、潘佩珠に見られるように、無政府主義者だけではない。素昂の場合、このときの無政府主義とアジア連帯への関心が温められ後年発芽していくものと見られる。

『東遊略抄』は留学中の素昂が民族運動に積極的に参加していたことを示している。とくに注目されるのは、一九〇七年六月のハーグ密使派遣事件後の活動である。七月一六日付『報知新聞』が、在日韓国人留学生等は日本の怒りを解く事に努め中には皇位の廃立を求める者も有る、という記事を掲げたことに対し、留学生会は、事件の真相を本国・世界・日本の各政党に伝えることを決議した。素昂はその宣言書の起草委員となって、本国と世界の各政党に向けて夫々「告本国各社会書」と「痛哭告于本国同胞」の文を書いている。

 ただ、日本の各政党に送る文を誰が書いたのかは記されてなく、その文書も確認できないが、内容は素昂が書いた二つの文書と大きく異ならないと思われる。恐らくは、同趣旨の文書を日本語の上達した者が書いたであろう。

 さて、素昂がこの二文を書いたのは七月一八日であるが、朝鮮の独立を促した前記の「東京社会主義有志者決議」が出されたのは、七月二一日である。ときは、まさに亜洲和親会が発足する時期にあたり、「決議」の内容は素昂が書いた抗議文との関連性を示唆している。一方、素昂は一九〇八年六月二六日に新橋を出て朝鮮に帰り九月三日東京に戻るが、日記にはこの前後に素昂が清国留学生と交わっていたことが記されている。また、この時期の特徴は、以前の日記には韓国問題だけが記され国際的な記述はなかったが、国際的な重要事項に関して日記に「時事」蘭を書くようになったことである。主な「時事」の内容は、清国・印度・露国の情勢に関するものであった。たとえば、一九〇八年六月一〇日条に、清国革命の動向が、六月一二日条には、印度独立運動の動向が記されている。そして、六月二一日条には、「清国時事談会に赴く」とあるから、時事問題の記録が人的な接触と関係していると見える。そして、韓国から戻ってきてからはとくに、戴季陶との交流を記している。

 一九〇八年十月二五日条に、「清人戴良弼、十八歳人、大材也。面会の機を有せり」とあり、一一月一九日条に、「学校からの帰路、清人戴氏の寓を訪ねる」とある。無論、これらの記録は亜洲和親会と直接つながるものではないが、素昂がこの時期に中国のみならず印度の留学生及び革命家らと関係していた可能性を強く示唆しているものと言える。そして、『東遊略抄』の一九一一年一月二五日条には、「新聞を見る。此の日十二人の社会主義者に死刑を処す。即ち幸徳伝次郎及び管野水加以下也」という記述がある。

「大逆事件」の処刑について記した時期を前後して素昂は、当時進行中であった中国やメキシコ革命関連情報を二、三回摘記している以外、時事記事をとりあげていない。基本的に彼の日記の文体はきわめて簡潔である点を勘案すれば、この記録は軽視できない比重を占めている。韓国併合条約調印の日である一九一〇年八月二二日条に、「是日、号外を見る。則ち、合邦将に発布せられ、四千年故国、今焉に去らんとす」とあるのと、同様の沈痛さが伺われる。

 これと前後して、素昂自身も官憲に拘禁・拷問され「精神的な破裂」状態を経験するのである。また、素昂は一九一六年再び上海に亡命して、「大同党」の結成を推進し、印度・中国・台湾・緬甸・比律賓・越南などとの連帯を呼びかけていた。

 同会を素昂は、朝鮮語で「」或は「亜細亜韓薩任」と称し期待を寄せたが進捗せず、満州・沿海州などの朝鮮独立運動家との接触に奔走することとなる。ただ、素昂が作成した「韓薩任要領」は「人類・民族与国家三平之旨」を規定し、前述した三均主義の基底になっているが、同時に無政府主義の影響を強く受けたものと見える。とくに素昂は、同志金相玉を「大同党」に入会させながらクロポトキンの『近代科学と無政府主義』を勧めた点からして、アナーキズムに強く共感していたことが窺える。素昂は自己の政治理論の体系を「復国―建国―治国―世界一家」と段階的に示しているように、「復国」即ち独立を急務とし、それに様々な思想的意義を与えていたのであり、この論理は亜洲和親会の綱領とも一致している。

 
むすびに

 平民社の「宣言」は、ドイツ社会民主党の綱領に沿って安部磯雄が書いた「社会民主党」の宣言(一九〇一年五月二〇日)を受け継いだものであったが、「平民社」の場合、荒畑寒村が回想しているように、社会主義の「思想的原始時代」に「初めて書斎の研究から街頭の政治運動に進出」したところに大きな意義があった。

 街頭での実践は、国内の社会改革にとどまらず、非戦運動や反帝国主義の活動においても活発な国際的連帯が試みられ、平民社と亜洲和親会はアジアの社会主義および民族解放における連帯運動の嚆矢となった。平民社と亜洲和親会の関係について、両者の理論的な対立を強調する見方があるが、筆者はむしろ亜洲和親会に対する平民社の理論的な影響の側面を重視する。

 平民社と亜洲和親会をつなぐものとして社会主義講習会の存在を考えれば、人的にも理論的にも両者の関係は密接であることがわかる。亜洲和親会の「約章」及び「亜洲現勢論」のなかに社会進化論に対する相互扶助論の論理が示されている通り、同会は各国の独立を課題とすると同時に、社会主義及び無政府主義を理論的背景とし、それに基いた内政改革のプランや将来の国際社会のあり方を模索していた。

 すなわち、両者の理論は単純に対立するものとは言いがたい。一九〇七年のアジアという歴史的条件の下で、アジアの革命家らとの交流は、平民社同人に民族問題の重要性を促したと言える。

 ときあたかも、一九〇七年八月一八日から二四日の間に、第二インターのシュトゥットガルト大会が開催されていたが、同会合が、僅差で否決したとは言え、社会主義制度下の植民地文化論を議題に乗せ、採択寸前までいった状況に比すれば、亜洲和親会の創立はまさに画期的なものであった。

 独立を最優先にすることによって亜洲和親会は、社会主義のアキレス腱と言われる民族問題を乗り越え真の連帯を可能にし、玄洋社や東亜同文会など日本のアジア主義的諸団体が主張する東洋平和のための台湾・朝鮮・満州支配などの論理を、根底から克服することができたのである。

 しかし、亜洲和親会という弱者の連合は、会自体が一年足らずで弾圧に抗し切れなかったように、現実的には大きな勢力とはなり得なかった。同時に、会内部の思想的統一に欠け独立のみを優先させたため、イデオロギーによる左右分裂の可能性を内包していた。ただ、亜洲和親会は当時の帝国主義の進行に抗したアジア各国の革命的情勢のなかで生まれたものであり、その限りにおいて、趙素昂の上海での活動や東方無政府主義者連盟などに見られるように、以来連帯の試みは続けられ得たのである。

 東方無政府主義者連盟そのものが、大杉栄の遺志を継いだものであり、当該事件で拘束され獄死したが幸徳秋水の理論に強く共感していたように、平民社の人々の活動は以後も継承されていったと言えよう。