市ヶ谷刑務所陸測図該当エリア

アメリカ、ヨーロッパにおいても処刑反対の抗議行動が広がり、政府は死刑執行を急ぎ、判決後一週間内で12名を処刑した。国内でも審理終結前後から徹底した報道・情報規制を行い地方紙を主として幸徳や無政府主義に触れた記事掲載で15件余りが発売・頒布禁止、差押処分を受け新聞紙条例・新聞紙法違反で禁錮、罰金判決が出された。弁護人ですら公判記録を判決後所持することは認められず大審院は返還要求をした。また刑死者の獄中記や遺書を法務、監獄当局は隠匿し続けた。  1月25日、幸徳の遺体は堺が引取、落合火葬場へ運ぶ。古河の遺体は実父が引取、大石は実姉が火葬、森近の遺体は堺が引取27日に火葬場へ運ぶ、内山の遺体は義弟が引取る。

25日、徳富蘆花、天皇に対し「12名の助命嘆願」の手紙を書き、東京朝日新聞主筆、池辺三山に託す(執筆時、処刑報道は伝わっていなかった)。
26日、管野の遺体、増田謹三郎が引取る。成石平四郎、松尾、新美の遺体、堺為子が引取る。
26日『二六新聞』紙に1月21日付け「管野すがより大杉夫婦宛書簡」掲載。
27日、荒畑寒村、増田方を訪れ管野須賀子の遺体と対面。27日、古河遺体火葬、27日、内山の遺骨は箱根林泉寺に埋葬
28日、古河遺骨、渡辺政太郎が堺方に移す。28日、管野須賀子の遺体、正春寺に埋葬。
28日、徳富蘆花、「謀反論」の演説草稿を完成させる。
29日、新村実姉、共同墓地の新村遺体を火葬
29日、ニューヨークで幸徳死刑への抗議集会と日本領事館に向けデモ。
30日、堺利彦宅にて刑死者の遺体引取りに関わった人たちの慰労の集まりが開かれる。
31日、新村遺骨、染井墓地に埋葬。

2月1日、幸徳秋水遺著『基督抹殺論』刊行。幸徳が公判中に脱稿し、処刑後一週間での刊行。印税は後に第一回の屋外メーデーの活動資金にも充当された。2月1日、徳富蘆花「謀反論」と題する講演を一高で行う。

2日 大石遺骨、新宮町南谷共同墓地に埋葬。
5日、堺利彦、監獄共同墓地の宮下の遺体を引取り火葬。
6日、政府寄りの「大逆事件講演会」国学院大学で開かれる。逆徒幸徳非難の保守的演説会であったが、唯一三宅雪嶺は官憲、裁判所を批判。
7日、幸徳の遺骨、中村の正福寺に埋葬。
12日 サンフランシスコで処刑者追悼大演説会が開かれる。
17日、宮下遺骨、実姉により甲府市三吉町光沢寺に埋葬。

 同志たちは接見禁止解除後、面会、差入で支援し、堺も在監中に関連して取調べを受けたが9月2日に出所、12月に売文社を立上げ、赤旗事件で出所した同志たちや仲間の仕事を確保しつつ、処刑者の遺体引取、火葬、遺族への慰問に奮闘した。

 大杉栄も千葉刑から東京監獄に移送され幸徳たちに関連して取調を受けたが、検事はフレームアップに組込むことはできず、11月29日に出所。面会、差入れを続けた。処刑後3月17日、大杉栄は東京を出発して大阪の「大逆事件」受刑者の家族を見舞い、22日に帰京、24日、同志茶話会にて「春三月縊り残され花に舞う」の句を読む。大杉はその後も懲役者への差入、刑死者の墓参りをした。
24日、古河遺骨、牛込、道林寺に埋葬。
堺は遺族の慰問で各地を回る。4月7日、岡山に森近の妻と実弟を慰問。
11日、エマゴールドマンより弾圧犠牲者への義捐金が加藤時次郎を受取人として送られる。
11日、堺、熊本の松尾の妻、実父、実弟慰問、佐々木の実母、実兄、新美の内縁の妻、叔父を慰問、墓参り。松尾方にて古庄友祐<旧『熊本評論』社同人>と対談、
22日から27日にかけて高知県中村の幸徳義兄宅滞在、幸徳の家族たちと交流、
28日には兵庫県小松留守宅訪問、
29日、武田内縁の妻、実弟を慰問、岡本内縁の妻、三浦家族を慰問。
5月3日、和歌山を訪問。大石、高木、峯尾、西村を慰問。成石の家族には書面で慰問。
5日、三重の崎久保遺族を慰問。
7日に帰京、同志への報告会を開く。
12日、堀保子、秋田監獄の坂本に書籍郵送するが、閲読は不許可になる。
7月、官憲の記録には<堺利彦、7月19日附け茨城在住小木曾助次郎へ宛てに「故幸徳伝次郎が在獄中より弁護士に送りたる極めて有益なる書面なれば一読の上返却せられたし」との意味を附記し郵送せり。「幸徳秋水の獄中より弁護士に贈る書」>とある。後に「陳弁書」と題される幸徳のテキストが同志間には閲覧されていた事実があり、フレームアップ事件としての「幸徳事件」の概要は知れ渡っていた。

1913年2月3日、大杉栄、秋田監獄の坂本に面会。[坂本清馬年譜]
1914年4月14日大杉、坂本宛に手紙発信。16日に坂本は手にする。
大杉は<坂本の姉が心配しているとして司法省に谷田監獄局長を訪ね、局長と典獄から二件の許可を得る。<書籍差入れを大杉が受持つ、坂本からの書信は交互に大杉と坂本の家族に発信する、大杉と坂本の家族も交互に発信する>

海外での抗議活動

1910年9月21日、ロイター通信が「天皇暗殺計画」を報道。
11月12日 エマ・ゴールドマン、ヒッポリート・ハベルら5名のアナキスト・自由思想家が駐米全権大使内田康哉あてに講義文を送る、これを機に全米、ヨーロッパ抗議行動が広がる。
11月22日 エマ・ゴールドマン、ニューヨークで第一回抗議集会を開く、数百名が出席「ニューヨーク・アピール」を採択。 12月10日 ロンドンのアルバートホールにおいて「処刑反対大演説会」が開かれる。
12月12日 ゴールドマン、ハベル、ニューヨーク、抗議集会、桂首相に抗議文を提出することを採択。
12月16日 岩佐、サンフランシスコで「幸徳記念演説会」を開く、作家ジャック・ロンドン支援日本大使に抗議文を送る。
12月 報告<コウトク事件>ヒッポリート・ハベル『マザー・アース』掲載。
1月 報告<日本における正義>ヒッポリート・ハベル『マザー・アース』掲載。
2月、報告<アナーキー万歳!>ヒッポリート・ハベル『マザー・アース』掲載。
「悪業が行なわれた。民衆の中の最良にして高貴な者が倒れ、最も悪魔的で野蛮な方法で殺 害された。比べようのない極悪な犯罪が1911年1月24日行なわれた。恐るべき打撃を人類に与え、文明の面前に挑戦状をたたきつけた。無情な野蛮主義が新思想のパイオニア達を 冷酷に縊り殺し、その絶望的な犠牲者達の苦痛に狂喜している。だが、われらは悲しまない。むしろわれわれの同志達の無実、純粋性、公明正大、忠実、自己犠牲と献身を全世界に表明するのがわれらの仕事である。われらは悲しまない。われらの友は不滅を成しとげ たのだ。新時代が彼らの受難の日をもって日本を衝撃した。ミカド・ムツヒトの時代は、人間の記憶から消えよう。ブシドウもおとぎ話で神話に過ぎない時も来よう。だが受難したアナキスト達の名前は人類の進歩の頁を飾るのだ。大審院の構成員達、人類の高貴な者を執行者の手にした彼らは、やがて忘れられよう。だがトウキョウの殉教者達は未来の世代の人々によって尊敬され賛美されよう。………」
2月、報告<コウトクデモ>『マザー・アース』掲載。
2月11日 報告<親愛なるホール様>エマ・ゴールドマン『マザー・アース』掲載。
2月15日、「ロンドンタイムス」記事 イギリス議会で「大逆事件」が議題となり、裁判手続、思想の自由等を独立労働党のケヤ・ハーディーが質問する。

12名、投獄後の状況

1914.6.24 高木 秋田監獄で縊死
1914.9.30 坂本 法相尾崎行雄宛に「無実を訴える」上申書を提出
1915.7.24 新村善兵衛、千葉監獄より仮出獄
1916.5.18 三浦 長崎監獄で自殺
1916.7.15 佐々木、千葉監獄で獄死
1916.10.10 新田、千葉監獄より仮出獄
1917.7.27 岡本 長崎監獄で病死
1919.3.6 峰尾 千葉監獄で病死
1919.4.2 新村善兵衛、大阪で死去
1925.5.10 飛松 秋田刑務所より仮出獄
1929.4.29 崎久保は秋田刑務所より、成石勘、武田は長崎刑務所より仮出獄
1931.4.29 岡林、小松は長崎刑務所より仮出獄
1931.1.3 成石 死亡
1931.10.1 坂本、秋田より高知刑務所へ移送
1932.11.29 武田 自動車事故で死亡
1934.11.3 坂本 仮出獄
1937.3.20 新田、東京で死亡
1945.10.4 小松 困窮の中で死亡
1946.2.24 坂本、岡林 刑の言い渡しの効力を失わせる「復権」
1948.6.26 崎久保、飛松「復権」
1948.9.1 岡林、高知で死去
1952.10 坂本「逆徒といわれて 在監25年・幸徳事件の真相」を『中央公論』10月号に発表。
1953.9.10 飛松、山鹿町で死去 65歳
1955.10.30 崎久保、市木村で死去
1975.1.15 坂本死去 84歳
1975.1.24 中村で追悼会「故坂本清馬君翁を讃える会」発足

再審闘争

1960.2.23 「大逆事件の真実を明らかにする会」発足
1961.1.18 坂本清馬、森近栄子(運平実妹)、東京高裁に再審請求申立て、東京高裁、森長弁護人等代理人
1963.9.13,14 坂本出廷陳述
1963.11.29 荒畑寒村証言
1963.12.20 荒畑寒村証言
1964.1.13,14 森近栄子他証言、岡山にて
1964.3.11 築比地仲助、証言
1964.5.8 崎谷一郎、証言
1964.7.15 日弁連、旧東京監獄刑場跡に「刑死者慰霊塔建立」
1964.9.25 神埼清証言
1964.12.28 意見書
1965.1.29 弁護人意見陳述
1965.12.1 再審請求棄却 (註 公表10日)
1965.12.14 特別抗告
1966.9.20 最高裁審理決定
1967.7.5 高裁決定を有効と判断、特別抗告棄却