
<聴取書及調書の杜撰>
第一、検事の聴取書なるものは何と書いてあるか知れたものではありません…大抵、検事がこうであろうと言った言葉が私の申し立てとして記されてあるのです。…私は検事の聴取書なるものは殆ど検事の曲筆舞文、牽強付会で出来上がっているだろうと察します。…
幸徳秋水「陳弁書」 より
大逆罪弾圧とフレームアップ
明治政府を打倒する1910年の無政府主義者による革命は、幸徳秋水を理論的、精神的支柱とし、管野すが、宮下太吉、新村忠雄、古河力作を闘争主体とし、当時の天皇ムツヒトを爆裂弾のターゲットにし開始せんとする構想であった。
だが、そこへ達する遙か前、実行に向けた意志も希薄になりつつある状況のなか革命の武器としての爆裂弾製造のプロセスが国家権力の治安警察に察知され、1910年5月宮下太吉らの逮捕に始まり、彼女、彼らの活動、交流から多くの社会主義に弾圧が拡大した。
構想のなかで具体化していたのは、爆裂弾製造のための材料集め、(試爆は一回行なわれているが完成品は存在していなかった)ムツヒトの乗る馬車へ爆裂弾を投擲する順番だけであった。
ゼネスト、人々の決起、治安権力との対峙、……武装蜂起から権力奪取なのか?当事者が直接残した文章はない。
当時、幸徳秋水自身は労働者によるゼネラル・ストライキから社会革命を目指すという直接行動を主張し始めていた。しかし、赤旗事件による同志への実刑弾圧、『麺麭の略取』を秘密出版せざるを得ない状況、『自由思想』発行に対する国家権力による妨害、と活動を封じ込められ、管野すが、新村忠雄による武装闘争から革命を目指すという立場を容認しつつあった。
大審院がフレームアップした首謀格、幸徳秋水(伝次郎)の「大逆」の意図を『判決理由』から抜粋すると以下の物語となり「11月謀議」となる。
「11月19日東京府北豊多摩郡巣鴨町伝次郎(幸徳)宅に於て、伝次郎が誠之助及び森近運平に対し赤旗事件連累者の出獄を待ち、決死の士数十人を募りて、富豪を劫掠(こうりゃく・財を奪い)し貧民に賑恤(しんじゅつ・賑し)諸官街を焼燬し、当路の顕官を殺し、且つ進んで宮城に迫りて、大逆罪を犯す意あることを説き、予め決死の士を募らんことを託し、運平(森近)、誠之助(大石)は 之に同意したり………」「11月卯一太(松尾)もまた上京して伝次郎を訪問し、伝次郎より赤旗事件連累者の出獄を待ち、決死の士数十人を募り、富豪の財を奪い貧民に賑し、諸官街を焼燬し、当路の顕官を殺し、進んで宮城に逼りて大逆罪を犯さんと意志のあることを聴き、これに同意して決死の士を養成すべきことを約し……」
このストーリーは幸徳がパリ・コミューンや1905年のロシア革命での労働者の決起を雑談で同志に話したのが、予審でフレーム・アップされ、さらに大石、松尾が新宮、熊本に戻り同志に東京での「幸徳の革命をめぐる雑談」として伝えたことがさらなるフレームアップにつながったのである。
大審院検事局の公訴事実が記録としては「隠された」ままであるが、平出弁護人が『特別法廷覚書』で骨子を記述している。その立会い検事平沼騏一郎の論告(1910年12月25日)は1908年11月、巣鴨平民社での、それぞれ別の日での大石誠之助、松尾卯一太と幸徳との話し合いを上記の陰謀とし「本件の発端なり」と位置づけ、「第一 東京・信州方面(幸徳直轄)、第二 大石の紀州陰謀、第三 松尾の九州、第四 内山の遊説(大阪・神戸)」と広域化、各地の社会主義者へ「大逆罪」弾圧を拡大した内容である。
それは明科での爆裂弾事件から大逆罪へ結びつけ、更なる拡大に11月謀議を位置づけ、内山愚童を無理矢理組み込むための皇太子「暗殺」計画なるものをフレームアップしたものである。全ての環に幸徳を存在させ内山を補強人物とし、大石、松尾を軸とし大阪、神戸、和歌山、熊本の社会主義者へと繋げた。(神奈川、名古屋の同志も一時はつなげられようとした)
坂本清馬は幸徳から距離をおき、森近は社会主義運動から離れ、奥宮は社会主義とは無縁でありながら1908,9年にかけての官憲の虚構の物語に登場させられた。
弾圧の発端は長野県明科在住、宮下太吉の爆裂弾製造を契機として始まった。1910年5月25日、爆発物取締罰則違反容疑で逮捕され、新村忠雄、兄善兵衛は同県屋代町の自宅から連行。5月29日宮下が爆裂弾の使用目的「天皇暗殺計画」を自供し検事の「聞取り書」には共謀者として管野すが、新村忠雄、古河力作の名が出される。5月31日、刑法73条(いわゆる大逆罪)該当事件として、検事総長に書類が送致され幸徳、新村、古河力作、管野すが、宮下、新村善兵衛、新田融の7名が大審院に予審請求、開始決定。6月1日、幸徳が湯河原で逮捕される。出版法違反で入獄中の管野すがは6月2日に調べ始められた。(新村善兵衛、新田は大審院判決で爆発物取締罰則のみ認定、「大逆罪」を承知していたという調書は信用できないとされた)
大石の新宮関連は7月6日武富検事が、小林検事正、高野検事と協議し(大石は既に6月5日起訴決定され東京に送られていた)高木顕明、峰尾説堂、崎久保誠一は7月7日、成石勘三郎を7月8日、成石平四郎を7月14日に起訴決定。やはり武富が7月29日から取調べに入った熊本関連は新美卯一郎、飛松与次郎、佐々木道元を松尾と同じく8月3日に起訴決定。
架空の「11月謀議」時に巣鴨平民社に同居していた森近運平は岡山に戻っていたが6月15日、巣鴨平民社に住込み、その後幸徳から離れた坂本清馬は8月9日起訴決定されている。
さらに1910年8月21日、大阪にて小林検事正、武富、小山検事は内山愚童の皇太子暗殺計画(「オヤジをやめて、セガレをやれば胆をつぶして死ぬだろう」なる放言)なる二つめの「大逆罪」フレームアップを組み込み、内山の歴訪した大阪から武田九平、岡本顕一郎、三浦安太郎は8月28日に起訴決定。神戸から神戸平民倶楽部の岡林寅松、小松丑治を9月28日に起訴決定、内山愚童を10月18日に起訴決定した。判決では「愚童、寅松、丑冶の行為は各同条の規定中皇太子に対し危害を加えんとしたる者は死刑に処すとあるに該当し、被告平四郎。安太郎の行為は各同条規定中天皇に対し危害を加えんとしたる罪と、皇太子に対し危害を加えんとしたる罪の刑に処すべく……」とされている。
奥宮健之は自由民権運動の世代でかつての自由党壮士。無政府主義、社会主義と無縁の立場であった。幸徳とは同郷の縁で交流があり、1909年10月、昔の仲間から爆裂弾の製法情報を入手し幸徳にそれを伝えたという件で巻き込まれた。(予審判事意見書では「伝次郎一派を緩和せしめんため…懐柔策を協議」とあり政治ブローカーとの間にたち金銭利益を得ようとした気配もあるが成功していない)
実際に、この国で、国家権力を転覆させることが同志の間で密に検討されたのであろうか。国家権力、大審院の杜撰なシナリオではあるが、現実に自分たちの体制、権力が打倒させられる恐怖感の一端があらわれている。
刑法76条(大逆罪)により26名が公判にかけられ、一般傍聴禁止、連日の開廷により、大審院のみの一審制という、近代史上、最大の暗黒裁判により開始から一カ月で24名への死刑判決。
国際的な無政府主義者、社会主義者の抗議運動の拡がりを恐れ、判決から10日も経たずして、1911年1月24日、25日と12名が絞首され、革命への精神と肉体を抹殺された。
国家権力、時の権力者、山県有朋、ムツヒトらが人々の間に無政府主義思想が拡がることを恐れ、無政府主義者一掃を図った大弾圧であり、「司法」という名の「合法」性を装った国家権力によるテロリズムそのものである。後に「大逆事件」といわれる。
これまでは弾圧のフレームアップの側面が強調され、彼女、彼等が無政府主義者として革命主体として何を考え、どのような行為があったかは十全に検証され得ていないのではないか。
(神崎清の『革命伝説』が個々の被弾圧者の実像に踏みこんだうえで「大逆事件」の全体構造を物語っている。本稿も1次資料が掲載されている文献が入手できない場合は、『革命伝説』芳賀書店版によっている。)
弾圧の実態、裁判のプロセスが公然と語ることが可能になったのは1945年以降である。しかしながら無政府主義の立場で言及している文章は少ない。新たに調べようとしても、近年では一般的な文献も入手し難い。被弾圧者個々の研究書を読み通しても弾圧全体は解かり難い。
わかり難さは何に起因しているのか。実行の意志と計画を知っていたメンバーと周辺の同志との繋がりに関する資料が少ない、被弾圧者の公判廷、獄中における一次資料が1945年まで司法省により隠匿されていて解明が始まったのが、判決、処刑より30年余りの後で周辺の証言が不足している。
「再審請求」が焦点化していた時期にフレームアップの側面が強調され過ぎたこと、研究者の思想的なスタンスから無政府主義思想に距離を置いたり、無知から生じて正確でない記述があること。直接の被弾圧者が26名という大弾圧が個々の生き方を描きだすのに膨大な労力を必要とする。これらが要因であろう。
また幸徳秋水はスペイン政府による無政府主義者フェレル処刑への抗議記事を執筆している。伊藤博文への報復を果たした安重根の肖像写真のポストカードには秋水の漢詩が刷りこまれていた。さらに秋水はサンフランシスコでの無政府主義者との交流を行なっている。1900年代は国際的革命運動の連帯は有り得たのか。
まずは宮下太吉が闘いに踏み出す状況から始めたい。次に幸徳秋水が翻訳したクロポトキン著『麺麭の略取』の出版の活動に焦点を当てたい。
宮下太吉
熟練の機械工であった宮下太吉である。1876年生まれ。小学校を卒業し、すぐに鍛冶屋に見習いにはいった。彼は社会主義文献に触れる前から労働者が置かれている環境に疑問を持っていた。『日刊平民新聞』を入手してからさらに労働者の組織化に目覚め、自分の職場に組合を結成し「亀崎鉄工所友愛義団」と名付けた。
弁護人が残した大審院特別法廷覚書によると、宮下は法廷で次の様に述べている。
「煙山氏の『無政府主義』を読みし時、革命党の所為を見て日本にもこんな事をしなければ、ならぬかと思いたり」予審調書では
「私は社会主義を読み、社会主義を実行するに当たり、皇室を如何にすべきかとの疑問を持っておりました処、1907年12月13日、森近に会ったから、日本歴史に関し皇室の事を質問したのです。 …… 」
森近運平から、後に早大教授となる久米邦武の『日本古代史』を見せられ、「皇室崇尊の思想は迷信である」と学んだのである。
1908年1月には片山潜の講演会も地元で主催したが片山の議会主義には納得しなかった。2月には再び森近を訪れ、秘密出版されたアナキスト、ローレルの『総同盟罷工論』を貰っている。
森近運平が『日本平民新聞』13号(1908 年2月5日号)に宮下の印象記を載せている。
『脳と手』 森近運平
「宮下君ら数十名の同志は、面倒臭い本こそ読まぬ。金鎚と鉞とネジ廻しとを以て、器械を組み立てる技術を持った人である。その頭脳の明晰なる事、到底帝国大学の先生方の及び能わざる所であると感じた」
11月には内山愚堂から『無政府共産 入獄紀念 革命』が送付されてきた。
『無政府共産 入獄紀念 革命』(部分)
「人間の一番大事な、なくてはならぬ食物を作る小作人諸君。諸君はマアー、雄や先祖のむかしから、この人間の一番大事な食物を、作ることに一生懸命働いておりながら、くる年もくるとしも、足らぬたらぬで終わるとは、何たる不幸のことなるか。 ……………… 今の政府を亡ぼして、天子のなき自由国に、するということがナゼ、むほんにんの、することでなく、正義をおもんずる勇士の、することであるかというに、今の政フや親玉たる天子というのは諸君が、小学校の教師などより、ダマサレテ、おるような、神の子でも何でもないのである、今の天子の先祖は、九州のスミから出て、人殺しや、ごう盗をして、同じ泥坊なかまの、ナガスネヒコなどを亡ぼした、いわば熊ざか長範や、大え山の酒呑童子の、成功したのである、神様でも何でもないことは、スコシ考えてみれば、スグしれる。………………
小作人諸君。諸君はひさしき迷信のために、国にグンタイがなければ、民百姓は生きておられんものと信じておったであろう。ナルホド、昔も今も、いざ戦争となれば、ぐんたいのない国はある国に亡ぼされてしまうにきまっておる、けれどもこれは天子だの政府だのという大泥坊があるからなのだ。
戦争は政府登政府とのケンカではないか、ツマリ泥坊と泥坊がナカマげんかするために、民百姓が、なんぎをするのであるから、この政府という、泥坊をなくしてしまえば、戦争というものはなくなる。戦争がなくなれば、かわい子供を兵士にださなくてもよろしいということは、スグにしれるであろう。
ソコデ小作米を地主へ出さないようにし、税金と子供を兵士にやらぬようにするには、政府という大泥坊をなくしてしまうが、一番はやみちであるということになる。
しからば、いかにしてこの正義を実行するやというに、方法はいろいろあるが、マズ小作人諸君としては、10人でも、20人でも連合して、地主に小作米をださぬこと、政府に税金と兵士をださぬことを実行したまえ。諸君がこれを実行すれば、正義は友を、ますものであるから、一村より一ぐんに及ぼし、一ぐんより一県にと、ついに日本全国より全世界に及ぼして、ココニ安楽自由なる無政府共産の理想国ができるのである。
何ごとも犠牲なくして、できるものではない。吾と思わん者はこの正義のために、いのちがけの、運動をせよ。(オワリ)」
宮下太吉は内山愚堂と面識はなかった。内山は平民社の購読者リストに基ずき、秘密出版した『無政府共産』のパンフレットをそれぞれに複数部、送付したのである。
宮下は、その内容に大いに共感し、たまたま11月10日に天皇ムツヒトが関西行きのため、近くの東海道線大府駅を通過するという新聞記事を読み、集まる住民に配布することを決意した。
神格化され絶対権力者としての天皇への批判・否定のパンフレットは所持しているだけでも「不敬罪」の取締対象である。現実に何人かが内山から送られたものを所持しているだけで弾圧され、不敬罪で起訴され5年の実刑攻撃をうけている。
宮下は森近運平や平民社からの影響を受け急速に社会主義の文献を読み始めていた。自分の職場の仲間にも広めようとしていたが、すぐに反応は返ってこなかった。そこへ『無政府共産』の送付である。職場の労働者以外にも、さらに多くの人々に天皇と政府の支配から脱し革命に参加することを訴えようとしたのである。
宮下は工場を休み、『無政府共産』を15部所持し大府駅へ向かった。配布しながら天皇神話を崩そうとしたが、人々の反応は宮下にとって満足の行くものではなかった。しかし天皇への不満を述べる者もいた。
1909年2月、東京への出張の帰りに、巣鴨の平民社を訪ねた。そこで幸徳秋水に初めて会い、ムツヒトの暗殺を計画していることを話している。宮下の、これらの交流、活動の一端は予審で供述調書を作られてしまい、大審院の判決理由で虚構の物語に組み込まれていく。
『大審院判決』抜粋
「……運平は無政府共産主義を奉じ、大阪に在りて、大阪平民新聞、或いは日本平民新聞と称したる社会主義の新聞紙を発刊し、又定時茶話会を開き、無政府共産説を鼓吹す。 偶々、被告宮下太吉、心を同主義に傾けたるも、皇室前途の解決に付いて惑う所あり、明治40年12月13日、運平を大阪平民社に訪うて之を質す。
運平即ち、帝国紀元の史実、信するに足らざることを説き、自ら太吉をして、不臣の念を懐くにいたらしむ。
其後、太吉は内山愚堂、出版の『入獄記念 無政府共産』と題する暴慢危激の小冊子を携え、東海道大府駅に到り、行幸の歯簿を拝観する群集に頒与し、且之に対して、過激の無政府共産説を宣伝するや、衆皆、傾聴するの風あれども、言一たび皇室の尊厳を冒すや復耳を仮す者なきを見て、心に以為く、
帝国の革命を行んと欲すれば、先ず大逆を犯し、以て人民忠愛の信念を殺ぐに若かずと、是に於て、太吉は爆裂弾を造り、大逆罪を犯さんことを決意し。
明治41年11月13日、其旨を記し、且一朝、東京に事あらば直に起て、之に応ずべき旨を記したる書面を運平に送り、運平は之を伝次郎に示し、且、太吉の意志強固なることを推奨したるに、伝次郎は之を聴いて喜色あり、 ………… 」
宮下は神格化された天皇の存在を打破するところから社会主義思想、無政府共産主義思想に近付いていった。
宮下の眼には触れていなかったと思われるが、1907年の11月3日、すなわち天皇ムツヒトの誕生日に合わせて、サンフランシスコ在住の社会革名党員(幸徳が滯米中に組織化した在米日本人の党派)が『ザ・テロリズム』と題した新聞を配布した。
その内容が「日本皇帝睦仁君に与う」というタイトルでムツヒトへの暗殺通告そのものであった。現実に暗殺を計画したというより日本の国家権力の追求が届かない海外から、脅かしをかけたというところであろう。
11月3日当日にサンフランシスコの日本領事館正面玄関に貼り付けられたという。また日本国内にも送られたようである。一部が関東の社会主義者の家に残されていた。
『日本皇帝睦仁君に与う』 (部分)
「日本皇帝睦仁君足下。余ら無政府党、革名党暗殺主義者は今足下に一言せんと欲す。……
睦仁君足下。さきに足下は足下の暴威の範囲を拡張せんがために隣邦支邦と戦えたり。近くは露国と戦えたり。この時において足下の幇間は挙国一致を説き、忠君愛国を語りて、おおいに殺戮を奨励したり。嗚呼日本の平民は支邦の平民になんらの怨恨かある。露国の平民は日本の平民になんらの怨恨かある。…………
戦後の足下は一等国の君子となりしにあらずや。貴族は爵位を得しにあらずや。資本家は巨万の富を得しにあらずや。しかしてみずから鉄砲をとりて戦えし平民の子は戦場の露と消え、あるいは傷けられ、あるいは捕虜となり幸いにして帰りし者は、重税を課せられ、数十億の国債を荷なえてなお飢餓と戦えつつあるにあらずや。見よ、足下および足下の周囲なる権力階級は失うところなくして、得るところ大なるを見よ。平民階級は失うところ大にして得るところ一もなきを。……………
………ここにおいて吾人は断言す。足下は吾人の敵なるを、自由の敵なるを。しかして足下が自由論者に向いて挑戦したる行動なりと。よししからば吾人にもまた吾人の覚悟あり。吾人いたずらに暴を好向ものにあらず。しかれども暴をもって圧制する時には、暴をもって反抗すべし。
しかり、吾人は最後の血滴をそそがんまでも、足下に反抗し、現在の秩序に逆らいて反抗すべし。遊説や扇動のごとき緩慢なる手段を止めて、すべからく暗殺を実行し、間諜者、圧制者は、すべて、その人の、いかなる位置にあるを問わず、尽くこれを謀殺すべし。 これらを単純なる紙上の空論と誤認するなかれ。暗殺主義は今や露国において最も成功しつつあり。仏国においてもまた成功したりき。……… 睦仁君足下。憐なる睦仁君足下。足下の命や且夕にせまれり。爆裂弾は足下の周囲にありて、まさに破裂せんとしつつあり。さらば足下よ。
1907年11月3日 足下の誕生日
無政府党暗殺主義者」
内容は天皇の神格を歴史的に否定し、侵略と奴隷使役を繰り返してきた一族の末裔にすぎないこと。現在も日本人民は奴隷道徳のもとに支配されている。人間として自由を求めるのは当然である。その自由を訴える新聞、雑誌記者、労働者が投獄され、日本社会党も解散を命じられた、という主張である。
国家権力の中枢に位置していた山県有朋はタイミングを計り「赤旗事件」直後、天皇ムツヒトに『ザ・テロリズム』を発行した社会革命党の存在を伝え、国内の社会主義者と結びついていると語った。
その結果が大杉栄、堺利彦、山川均らに対する一年から二年半の禁錮、重刑攻撃につながり社会主義者の活動が封じこめられた。
1902年『近世無政府主義 、1903年『社会主義神髄 、1908年『麺麭の略取』の出版と社会主義、無政府主義の纏まった文献がようやく広まった時代である。それに伴って日本という国の政治体制を分析していった場合、天皇一族の存在が歴史的、国家論の視点から検証され始めたのである。
前出、その天皇の存在に対する歴史認識から、東大を追われた久米邦武の『日本古代史』も大きな役割を果たしている。
宮下は幸徳、森近らの平民社との交流、内山愚堂の『無政府共産』から天皇観の影響を受け学び、天皇の存在が労働者、小作人、戦争に駆り出される人々を苦しめている元凶だと認識したのである。
宮下が使用していた1908年の市販の日記帳には皇室欄が付録として付いていた。そこに宮下の書き込みが残されている。
〈皇 室〉 寄生虫ノ集合体 革命ノ時ハ皆殺ス
〈皇 族〉 寄生虫ノ集合体 革命ノ時ハ殺ス可者
〈御歴 代表〉 寄生虫ノ経歴表
〈陸軍管区表〉 社会ノ害物
〈貨幣明細表〉 新社会ニハ不必要
〈印 紙 税〉 新社会ニハ不必要
宮下の決意が率直に表現されている。陸軍管区表というのは師団の所在地のことである。反軍の立場、革命時の障害になるということで記したのであろう。
大府駅での『無政府共産』の配布から数ヶ月を経て1909年の2月には、天皇暗殺の決意が出始めている。自分は命を賭けて革命のための礎になろうと決意したのである。残されている資料を検討する限り、煙山専太郎の『近世無政府主義』からの影響であろうか。
煙山専太郎は後に早大の教授になる。長男が1971年にエッセイで
「父の立場はいうまでなくこれ(革命)を謳歌宣伝するものではなく『警世の書』であったのです。………ただ父は、この書 を上辞するに当たり、警保局?の役人から取調べをうけ、無事にパスして公刊できるようになったと申しておりました。…………」
と述べている。
煙山専太郎の思想的な立場はわからないが、「警世の書」というのは当局への対応上主張していたのかもしれない。もしくは出版時の予想に反して、無政府主義者に影響を与えたり、宮下太吉の蔵書にもあったということで、「保身」的言辞にならざるを得なかったのであろう。
出版当初は余り売れず、幸徳秋水が米国から帰国後、無政府主義の立場を明確にしてから購入され始めたようである。
その内容はナロードニキの闘争、無政府主義の理論、ヨーロッパの無政府主義運動史となっている。
宮下はロシア皇帝アレキサンドル二世の暗殺場面を天皇ムツヒトへのそれと重ねたのであろうか。
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