
第4回予審調書
「まず爆裂弾を作り、第一に之を天子の馬車に投げつけて、天子も我々と同じく血の出る人間であるということを示したい。自分は、その決心を為して、是よりその計画を行なうべき旨を話しました」
1909年2月13日に巣鴨の平民社を訪ね幸徳に語っている。
東京に向かう直前には、岡崎の書店で、古本の『国民百科辞典』を見つけ購入。薬品の性質や、火薬の製法を調べ始めている。
押収された『日記』のメモによると、
4月13日 「平民社」にクロポトキン著、幸徳秋水訳『麺麭の略取』を注文。
4月18日 『法律と強権』と共に受け取る。
来たるべき社会のイメージを掴もうとしているのか。
5月の中頃には「ソロリン」という火薬の合剤を調合する方法を把握している。
5月25日には平民社から『自由思想』の一号を受け取り、同日幸徳あてに手紙を書いている。幸徳は同志からの通信はそのつど処分しているので現物は残されていないが、宮下がその主旨を供述している。
「研究によって爆裂弾の調合が判った………主義のために斃れる………」
5月27日、28日には『自由思想』一号を再び受け取る。
同、5月28日には菅野スガより「会って話したい」との通信が届く。
6月6日には千駄ヶ谷に移っていた平民社を訪ねる。
宮下の予審での第21回調書が残されている。
「私は、幸徳、菅野両人に対し、爆薬の調合も判ったから、いよいよ爆裂弾を造って、天子を斃すと申したるに、幸徳も管野も之に同意しました。もっとも、幸徳は自分も一緒に、加わってやると名言しませんでしたが。
私に向かって、
君は田舎に住まっている人であるから、別に面倒な事もないが、自分らは東京に住し、人に顔をよく知られているから、いよいよ実行する時機が来たら、三ヶ月くらいは、所々、田舎に引っ込み、一時姿を隠しておかねばならぬ。
また、
その如き、事をやるについては、その理由を書き残しておかないと、世間から狂者の所為の様に思わる。と言いました。
それで、私は無論、同人らは、私と事を共にする考えがあったもの、と思いました。」
幸徳は、自分自身が参加することは曖昧にしていたが、菅野スガは積極に反応していた。
菅野スガ・第二回聴取書
「私は元来、無政府共産主義者の中でも、過激なる思想を懷いておりましたが、………とうてい温和なる手段で、主義を伝道するなとは手ぬるい事であると考え、寧ろこの際、暴動もしくは革命を起こし、暗殺等も盛んにやって、人心を覚醒せなければ駄目であるから、出獄後は、この目的のために活動する考えを起こしたのであります」
「6月、宮下と前相談した中に、私からこの計画をやる二人、新村忠雄・古河力作の両人は、予って熱心なる主義者で、最もしっかりして居るから、この両人も、入れる様に相談致しました」
この6月の平民社での話し合い以降、宮下の活動は爆裂弾の材料集めと製造に集中して行く。
7月5日 甲府の薬屋で、塩酸カリ九百 入手。
7月10日 鶏冠石、入手依頼の手紙を亀崎の知人に出す。
7月19日 塩酸カリ、入手依頼の手紙を新宮の新村に出す。
7月31日 鶏冠石千二百 、明科の宮下の下に届く。
8月11日 塩酸カリ四百五十 、新宮の新村から届く。
11月3日 明科背後の大足山中で爆裂弾を試発させる。
1910年
1月1日 宮下は前夜より平民社に滞在していた。幸徳、菅野、新村と朝より午後3時頃まで談論。 証拠物写し第一冊 爆裂弾の容器と火薬を黒いカバンに入れて持って来た。ブリキ容器二個、白い粉末の塩酸カリ、鶏冠石粉末 直径一寸、長さ二寸のからの容器を握り、畳の上に投げつけた
1月 23日 古河、千駄ヶ谷平民社を訪れる。宮下は不在。 「この計画も、話も進行させない。年寄りはだめだ。あの人はもうやめさせようじゃないか。」
新村 「いやな人はよせばいい。やりたい者がやればいい」
古河 管野が加わる。新村、ノートに鉛筆で図面を引く。馬車襲撃の方法、手順、役割などの説明。襲撃の時期「本年の秋季」漠然たるもの
2月6日 新村、明科の宮下を訪ね、下宿に二泊。1月 23日の話を伝える。 管野の指示を新村が伝える。「ブリキ缶と鉄缶とどちらが爆発が強いか。もう一度実験してみよう」 3月6日 宮下、新村と品川駅で落ち合う。話の内容は不明。
3月 23日 平民社解散、幸徳は湯河原へ。
3月 25日 新村、明科の宮下、下宿へ一泊
3月 27日 新村、再び一泊
4月 23日 管野、湯河原から宮下へ手紙を出す。 「もう一度、爆裂弾の試験をして欲しい」 4月?日 宮下(職工長)製材所の鍛冶工場で新田融にブリキ缶の製作を依頼。24個を製作。「蚤とり粉を入れて、いたずらをするのだ」前年12月の製作に続いて二度目。
4月 26日 宮下、尾代町の新村を訪ねる。2月6日の再実験の場所を捜す。人家が散在し、見つからない。「秋までには、まだ時間的余裕があるから、いずれそのうち、場所を選んで実験をしよう」新村、強く主張 「5月1日に、屋代の北東の山中において、昼間、爆裂弾の試発をしよう」
5月1日 宮下、部下である清水の妻、小沢玉江と自由恋愛
5月8日 清水宅に火薬を預ける。(昨年 11月に一度預けて5月始めに引き取る) 白木の箱に釘付けして、古河力作へ「変事のあった時は」郵送とメモをつけていた。
5月 14日 新村の明科入りを、駐在の小野寺老巡査が察知、追跡。
宮下の供述内容。第 15回調書 「管野も入獄する。私も … 」
5月 17日 宮下、屋代の新村に会いに行く。新村は上京した後で不在。 小野寺巡査、工場のスパイ結城三郎よりブリキ缶の情報を入手。 管野、新村、古河で実行のクジをひく。 5月18日 管野、東京監獄に入獄
5月 19日 新田融、警察に宮下からのブリキ缶製造依頼を話す。
5月 20日 宮下を小野寺巡査と中村刑事が訪問する。「爆発物を製造したるものなりと思料し」下宿の任意家宅捜索、ブリキ缶三個が発見される。
宮下、清水宅を訪ねる。「巡幸の時に投げつける。管野、新村と自分と三人でやる。天長節にやる予定だ」
5月 21日 爆弾の材料を工場に移す。
5月 22日 清水は工場長西山に宮下の爆裂弾の件を密告に松本に行く。所長は出張で不在。 5月23日 長野県警察署長会議に向かう、松本警察署長、小西吉太郎に明科駅で中村刑事、小野寺巡査から宮下太吉に関わる爆取罰則違反容疑の報告書を受け取る。
5月 25日 午前6時、中村刑事、小野寺巡査が清水太市郎宅を急襲清水、宮下の計画を話し、爆裂弾の容器であるブリキ缶を製材所に移したことを話す。警察部へ出張中の署長に急報。 新村の検挙を検事正と打ち合わせ、屋代警察署長に検挙を指示。午前10時から11時まで明科製材所を承諾捜査
宮下太吉が午後3時過ぎに逮捕される。
「ブリキ缶を製造させた事実を認める」新村忠雄が自宅にて屋代警察署により逮捕。午後3時過ぎ。 午後 11時過ぎに新村善兵衛も拘印引状が執行される。
5月 27日 長野地裁三家検事正は東京にて検事総長の指揮を請う。東京地裁、小原検事に長野地裁への出張辞令を交付。
5月 28日 午前10時半、三家検事正は警察署長会議の最終日に出席 古河力作、任意同行を求められる。
翌日、長野地裁検事局に巡査に付き添われ出頭。
5月 31日 三家、事件を検事総長に「刑法73条に該当する犯罪」として送致。 七名<宮下、新村兄弟、管野、新田、幸徳、古河>
午後 10時「大審院長の命により」予審判事潮恒太郎は湯河原の幸徳に対して刑法73条にて拘引状を発す。
6月1日
午前6時 10分、横浜地裁検事正、神奈川県警警察部長ら幸徳逮捕のため小田原で合流。午前8時30分、軽便鉄道「門川停留所前」にて幸徳逮捕される。
宮下太吉 初日 「お前らは世間で、犬だといわれているがほんとうに犬だ」
次の日 「役人はまっすぐ歩かない、とわれわれは思っておったが、お前らによってそれがよくわかった」「いおうか、いうまいか。ウッカリいうと、笠の台がとんでしまう」
三日目 「この事件はどうせ東京へ送られるであろうから、東京へいってから自白する」
宮下は取り調べで供述を始め、爆弾製造と皇室が目標だと認める。
予審調書概要
第1回 1910年6月4日 判事 長島長蔵
社会主義者になった動機、森近、幸徳との接触
天皇を斃す決心、爆裂弾の材料
第2回 1910年6月5日
幸徳、新村、管野、爆裂弾の相談
第2回 1910年6月5日
問 そのとき新村に宛てた手紙の文句で覚えているだけ申して見よ。
答 よく覚えてはおりませんが「〇〇を製造して主義のために斃れる」というようなことを書いたと思います。これだけ書けば外国で爆裂弾を使用して倒れた社会主義者がたくさんありますから、新村にも推測できると思いました。
第3回 1910年6月6日
新田に缶を作って貰った
暴動の時期
答 前に天皇を斃すために爆裂弾をつくるのだとという相談したと申しましたのは間違いで、先年の錦輝館事件のような暴動を起こすのだと新田に話たのです。 …
問 場所をどこと言ったか。 答 東京市内各所で暴動を起こすと申しました。
第4回 1910年6月7日
爆裂弾運動を幸徳に話した顛末
第5回 1910年6月8日
明科での生活、姉と同居
答 錦輝館事件のときのような暴動とは言いましたが、あのくらいの程度のことではありません。それなら何も爆裂弾など必要ではありません。私は官憲に抵抗して暴動を起こすというので、諸官省はもちろん、三井・岩崎などにも放火し、爆裂弾をもって各大臣をやっつけると申したのでありまして、暴動というより革命といったほうがよかろうと思います。
第6回 1910年6月10日
武市方での勤務状況、幸徳を訪ねた日
第7回 1910年6月10日
新田融との関係
第8回 1910年6月11日
愛人社、川田倉吉と一回会った
1909年2月13日、巣鴨平民社
第9回
天皇を斃すという計画、森近からの影響
古河を推称される
第10回
清水に計画を話した日
日記をもとにした訊問
第11回
問 森近が被告に対して「古河は桂候を短刀ををもって暗殺しようとしたが、目的を達しなかったので泣いた」ということを言わなかったか。
答 そういうことは申しません。ただ「短刀では駄目だから、爆裂弾が欲しいと古河が言っていたと」と申しました。
問 森近は幸徳とダイナマイトをつくる方法を研究したというようなことを話さなかったか。
答 森近はそのような話はいたしません。
……
第12回
証拠として手紙の表示ありたり。
第13回
古河加入の話
自身の変事の際、薬品を古河に送ることを清水に依頼した話
清水への薬品預け、清水の妻との関係
清水の妻と「通じた」話
塩酸加里、新宮にいた新村忠雄から送付されたが、その入手先
第14回
塩酸加里を送ってきたときの手紙の文句を思い出せないか
大石からもらっただろうと追及
秤の購入先
第15回 1910年6月28日
各証拠物を示して申し立てを聞く
森近に関すること
試爆用の鉄缶
日記への書き込み
『無政府共産』の影響
明科に新村忠雄が泊まった日付、九月二十八日
3月6日、品川停車場で新村に会った件
清水の妻たまと「通じた」日、日記に記した件
五月十四日に新村忠雄とどんな話をしたか
「清水たま」とのことを打ち明ける
五月八日の記述「うわさになっているが、清水に関係はしていないと話す」「清水は、俺はそんなことを信じていないから安心せよ、と申した」
五月二十二日、清水宅に行き、清水は留守で、たまが一人で居た。「世間で評判になっている」、たまは「私が死んでしまえば両方の顔も立つだろう」などと申したので、そのまま帰宅した。
五月一日、深志公園の開園日、清水は一人で出かけてしまった。「つい妙な仲になったように思う」
16回 1910年6月29日
塩酸加里を買い入れた薬屋、畑林、1909年8月6日であったということだが
「新村忠雄へ、塩酸加里を督促した手紙を八月一日に出した」
森近が援兵として上京と言った主意
大阪で最初に面会たとき「諸官省を焼き払い、監獄も焼き払って囚人を解放するような騒動を起こすこともある」と私に語った…
諸官省といったのなら天皇も同時に斃し、登記所や税務署をも焼き払うと言わなかったか
「そんなことは話しませんでした」
無政府共産主義にするというし詔勅を仰ぐという話はしなかったか
「そんな話もいたしません」
第17回 1910年7月1日
天長節で爆裂弾を試験したときに用いた缶はブリキ缶
であったというがどうか
「ブリキではありません、亜鉛です、五個つくってもらって十銭払ったと思います」
新村忠雄を介した奥宮に関する訊問
第18回
これまでの訊問の確認
第19回 1910年7月9日
爆裂弾の製造に関して実際家の説、新村忠雄に依頼
渋谷にいる奥宮健之
「幸徳宅では奥宮の話は出なかった」
奥宮に関する訊問が続く
第20回
1908年10月22日に森近から来た手紙の内容
秘密出版物を送る
『無政府共産』五十部を送ったのが誰だか判らない
諸官省焼き払い二重橋に迫る計画が書いてあったのでは
「書いてあったかもしれません」
「暴力革命を起こし、諸官省を破壊し、皇室を倒さねばならないということは当時から考えていた」
「11月10日、大府駅における天子通行の話を、11月13日森近に送った手紙に書いた、して自分は爆裂弾をつくって天子を斃す決心をしたという趣意」
暴力革命、東京での計画に関して訊問が続く
古河と実行を共にできると決心
幸徳の関与を絡めようとする訊問
第21回 1910年10月20日
1907年1月中から社会主義を奉ずるようになったのか
1907年、12月13日、森近訪問、話した内容
1908年の日記、11月頃、皇室の上に「寄生虫の集合体」「革命の時は皆殺す」と記す
森近との交流を訊問
『無政府共産』の配布
爆裂弾製造の決意時期
幸徳との書面往復、面会
管野、新村、古河との接触
森近郷里に戻る話と援兵
1908年3月、熊本に仕事で行きその際に社会主義者たちと
会った話、松尾卯一太宅に宿泊、新見卯一郎、宮崎民蔵、佐々木道元などと面会『熊本評論』をもらう
松原徳重から爆裂弾の製法を聞く
1909年、亀崎から明科に移る途中、6月6日、7日千駄ヶ谷平民社に宿泊、幸徳との話
「爆裂弾をつくって天子を斃す、幸徳、管野は同意」「幸徳は自分も加わってやるとは明言せず」「暴力革命の話」
明科での活動
7月5日、紀州にいた新村忠雄とのやりとり
9月28日、新村忠雄が宮下宅に宿泊
1910年秋、天子通行の際馬車に投げつけ東京市内で暴動大臣暗殺の話
新田には詳しい話をしていない
所有の地図に赤インクの線、1909年11月「青山練兵場行幸」の道筋の印、場所選定の準備
缶を投げる練習
1910年2月7日、新村忠雄が宮下宅にきた時の話、今年の秋決行
管野、古河、新村、私の四人が爆裂弾をもって天子通行の道筋に分かれて立ち馬車前方にいるものから投げるということを新村忠雄が書いて私に示す、管野が合図役…(宮下太吉予審終わり)
12月10日大審院公判が始まる。
1月18日死刑判決。
19日大杉栄に「文明とは人命の下落の由に候」とハガキを送る。
1月24日絞首、執行寸前「無政府党万歳」と叫んだと伝わる。
宮下太吉書簡、大杉栄宛 「昔の人の話に神罰程恐ろしきは無き由に候」
「或物知りの話に文明とは人の命の下落の由に候」
お願みしたい事がありますから御都合の宜敷面会にきて下さい。
堺利彦様に宜敷。
「麦地におちて他の麦生ず」とか申事をヤソ坊主に聴いた事がある。
- カテゴリ:















