
1911年
1.3 友人の平出修弁護士と会う、幸徳の弁護士宛「意見書」を借用する、翌々日までに写す
1月4日
夜、幸徳の陳弁書を写す
1月5日
幸徳の陳弁書を写し了る。
1月6日
借りて来た書類を郵便で平出君に返した。
夕飯の時は父と社会主義について語った。
1.9 瀬川深宛「僕は必ず現在の社会組織経済組織を破壊しなければならぬと信じている、これ僕の空論ではなくて、過去数年間の実生活から得た結論である、僕は他日僕の所信の上に立って多少の活動をしたいと思ふ、僕は長い間自分を社会主義者と呼ぶことを躊躇していたが、今ではもう躊躇しない、無論社会主義は最後の理想ではない、人類の社会的理想の結局は無政府主義の外にない(君、日本人はこの主義の何たるかを知らずに唯その名を恐れている、僕はクロポトキンの著書をよんでビックリしたが、これほど大きい、深い、そして確実にして且つ必要な哲学は外にない、無政府主義は決して暴力主義でない、今度の陰謀事件は政府の圧迫の結果だ、…)然し無政府主義はどこまでも最後の理想だ、実際家は先づ社会主義者、若しくは国家社会主義者でなくてはならぬ、…僕は今の一切の旧思想、旧制度に不満だ、…」
1.10 アメリカで秘密出版され日本国内に送付されたクロポトキン著の小冊子『青年に訴ふ』の寄贈を歌人谷静湖より受け愛読する。
1月10日
社に行くと谷静湖から約束の冊子が届いていた。
在米岩佐作太郎なる人から贈って来たといふ革命叢書第一篇
クロポトキン著「青年に訴ふ」の一書である
ク翁の力ある筆は今更のやうに頭にひゞいた。
1月11日
社で渋川氏に岩佐等の密輸入の話をした。
市俄(高)古の万国労働者の代表者から社に送って来た幸徳事件の抗議書──それは社では新聞に出さないといふので予が持って来た──を見せた。
1月12日
午前に丸谷君が一寸来た。前夜貸した「青年に訴ふ」を帰しに来たのである。
1.13 土岐哀果と会う、雑誌『樹木と果実』刊行を計画
1月14日
丸谷君が貸しておいた幸徳の陳弁書を持って遊びに来た。
1月16日
我々の雑誌を文学に於ける社会運動といふ性質のものにしようといふ事に二人の意見が合した
1月18日
今日は幸徳らの特別裁判宣告の日であった。社に出た。
二時半過ぎた頃 「二人だけ生きる生きる」「あとは皆死刑だ」
1.18 大審院、幸徳と外23名に死刑判決
1月19日
朝に枕の上で国民新聞を読んでいたら俄かに涙が出た。「畜生! 駄目だ!」さういふ言葉も我知らず口に出た。
1月20日
昨夜大命によって二十四名の死刑囚中十二名だけ無期懲役に減刑されたさうである。
1.22 平出修宛「僕はあの日の夕方位心に疲労を感じた事はありませんでした。さうして翌日の国民新聞の社説を床の中で読んだ時には、思はず知らず《日本は駄目だ》と叫びました。さうして不思議にも涙が出ました。僕は決して宮下やすがの企て
を賛成するものでありません。然し《次の時代》といふものについての一切の思索を禁じようとする帯剣政治家の圧制には、何と思ひかへしても此儘に置くことは出来ないやうに思ひました」
1月23日
休み。
幸徳事件関係記録の整理に一日を費やす。
1月24日
社へ行ってすぐ、「今朝から死刑をやってる」と聞いた。
夜、幸徳事件の経過を書き記すために十二時まで働いた。これは後々への記念のためである。
1.24 1月23日に啄木は事件の関係書類を整理しはじめ「日本無政府主義者陰謀事件経過及び附帯現象」としてまとめ終わったのは死刑執行の当日であった。
1月25日
昨日の死刑囚死骸引渡し、それから落合の火葬場の事が新聞に載った。
かへりに平出君へよつて幸徳、管野、大石等の獄中の手紙を借りた。
明日裁判所へかへすといふ一件書類を一日延して、明晩行って見る約束にして帰った。
1月26日
特別裁判一件書類をよんだ。七千枚十七冊、
十二時までかゝって漸く初二冊とそれから管野すがの分だけ方々拾ひよみした。
頭の中を底から掻き乱されたやうな気持ちで帰った。
1.26 平出の自宅で大審院公判記録の初めの二冊、管野須賀子に関する記録を読む
1月29日
外国語学校の阿部康蔵君が来た。無政府党のことについて語って、「学生には同情してる者の方が多いやうだ」と語っていた。
参考
『A LETTER FROM PRISON』‘V'NARODO' SERIES
註<全体のテキスト量>1980年「全集」でのテキスト量は29頁半
うち18頁半は幸徳とクロポトキンのテキスト 啄木自身のテキストは11頁
註 啄木に依る前書き 35行×26字のうち21行タイピング
「この一篇の文書は、幸徳秋水等二十六名の無政府主義者に関する特別裁判の公判進行中、事件の性質及びそれに対する自己の見解を弁明せむがために、明治四十三年十二月十八日、幸徳がその担当弁護人たる磯部四郎、花井卓蔵、今村力三郎の三氏に獄中から寄せたものである。初めから終わりまで全く秘密の裡に審理され、さうして遂に予期の如き(予期! 然り。帝国外務省さへ既に判決以前に於て、彼等の有罪を予断したる言辞を含む裁判手続説明書を、在外外交家及び国内外字新聞社に配付していたのである)判決を下されたかの事件──あらゆる意味に於いて重大なる事件──の真相を暗示するものは、今や実にただこの零砕なる一篇の陳弁書あるのみである。これの最初の写しは、彼が寒気骨に徹する監房にこれを書いてから十八日目、即ち彼にとって獄中に迎へた最初の新年、さうしてその生涯の最後の新年であった明治四十四年一月四日の夜、或る便宜の下に予自らひそかに写し取って置いたものである。予はその夜の感想を長く忘れることが出来ない。…
文中の句読は謄写の際に予の勝手に施したもの、又或る数箇所に於て、一見明白なる書違ひ及び仮名づかひの誤謬は之を正して置いた。
明治四十四年五月 H, I.
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