石川啄木

秋山清著『啄木と私』に関するメモ


1977年10月15日発行 たまつ社刊 (たいまつ新書27)

★<あとがき>

ここにはずいぶん前にかいたものが多い。しかし啄木についての私の感想は、戦後はもうそんなに動揺することがなかった。ずいぶん自己流にかいて来たけれど、いつも啄木が私を叱咤激励する立場にいることに変りがない。そんな詩人は他に一人だって、私にはいない。

★<啄木私論 アナキズム、ナショナリズム、ニヒリズム>

『文学』1962年6月、8月

■以下秋山清のテキストを要約

1925年か26年、「啄木命日の集会」に行く

渋谷、玉電発着所近く

出席者、土岐哀果、金田一京助、松本淳三、陀田勘助、野村吉哉、壺井繁治 149頁

1911年秋、金田一京助をたずねて、自分のアナキズム的傾向を是正して自分は社会主義的帝国主義だと説明したと披露

啄木最晩年の社会思想に関する緒家の発言

1926年、中野重治「啄木に関する断片」『驢馬』7号に発表

同傾向の立場のもの、渡辺順三、赤木健介、遠地輝武、石母田正らプロレタリア文学派系一般の啄木観

啄木の社会思想の評価は、なお慎重を要するもののようであり、わかく死んだ啄木がその早すぎた晩年に至って飛躍した左傾の実相は、先進性に必然に伴ったであろう未熟のひだをひそめて、今日やや決定的に考えられているように簡単に割り切ってしまえないものがあるように思われる。151頁

もっともひろく啄木について定説化しているものとして中野や渡辺、赤木ら旧プロレタリア文学派の合致する見解は、最晩年の啄木はマルクス・レーニン主義に近づくものであった、生きていたら必ずそうなったであろう、という願望を政治的な強引さで結論化したものである。…あまりにも希望的な結論をいそいだものとしか私には見えない。これらの楽天主義的な左翼文学者たちは、大正の十五年間のわが国の社会主義運動と労働運動の歴史を無視して、明治四十年代を昭和につなぎ合わせようする錯覚に立つことによって、そのような結論を啄木にいそがせたのである。つまり、政治的な主観偏重のために文学の現実的歴史的な考察に不十分だったのである。大逆事件をできるかぎり綿密にしらべようとした啄木ほどの手続きを欠落することによって「我等をして愛する啄木をかかる盲目的曲解者共から奪還せしめよ。我等をして彼の詩歌の中に痕跡を残せるその観念的虚無主義とナロードニキツームとに拘わらず、彼の真実の姿を、彼の方向を明確に感じ取らしめよ。必然こそ最も確実な理想である。──」(「啄木に関する断片」)という中野の排他的な、そして主観的な結論が生れたのである。152頁

秋山清引用の渡辺順三テキスト

座談会「現代と啄木の接点」『短歌』1961年4月

「<所謂今度の事>では、無政府主義ははっきり否定しておりますよ。無政府主義は性急な理想家だ、といい、着実な社会主義でなければならないんだということを、あの中で云っている」

秋山は「なるほど啄木はアナキストを性急な理想家とはいっている(秋山註、それは大逆事件関係者のなかの一部テロリストについての感想としてである)けれども、着実な社会主義云々のことは書いてない。(秋山、それは啄木の口をかりて渡辺が云っているのである)

赤木健介が『啄木入門』(春秋社)の「啄木の思想像」で展開していることも渡辺と軌は一つ。「無政府主義は最後の理想だが、そのまえに社会主義あるいは国家社会主義者でなければならぬというとき、啄木は現実に密着した理論と行動の必要を考え、大衆運動から孤立する傾向のあった幸徳派にたいして批判的な立場に立つことができたことを示している。ここにいう国家社会主義は、のちの右翼よファッショ勢力がとなえたようなものとはちがって、むしろマルクス主義に近いものだったように考えられる」153頁

啄木は大逆事件の判決の前後からようやくアナキズムの知識をいくらかわがものにしはじめたと考えられるからである。154頁

1月23日に啄木は事件の関係書類を整理しはじめ「日本無政府主義者陰謀事件経過及び附帯現象」としてまとめ終わったのは死刑執行の当日であった。

つづいて弁護士、平出修宅で裁判の一件書類を読んではじめて大逆事件の真相を知るり、国家権力との間に自己の対立感情の生ずることを自覚したのである。正確にはこの時に至ってはじめて革命思想としてのアナキズムの存在を知ったといっても過言ではない

1月9日の瀬川宛、2月6日の大島経男宛の手紙は事情を説明している。

アナキズムを人類最終の理想と見ることはなにもアナキズムではない。

アナキズムとはアナキズム的方法をもって社会革命を遂行しようとする思想である。とすれば、アナキズムを社会革命の終局の理想に置くといったことだけで啄木をアナキストだなどということはできない。啄木が国家権力と対立するものを自己の中に自覚したことは、アナキズムに一歩近づこうとした、といえなくはないとしても、啄木は果して国家権力との対立を如何に自覚したのであったろうか。アナキストが国家権力と対立するように権力との絶対的な対立を自覚したのであれば、まず国家社会主義でなければならぬなどという考え方は、述べられることがなかったはずである。だから、啄木がアナキズムを通過し又は卒業して所謂科学的な社会主義思想に近づこうとしたと見ることは、事実に於て逆ではなかったか。…アナキズムについてはその後に大逆事件を知り、それに注目し、進んで調べるという過程において、絶対国家の権力と対立するアナキストの存在を見てその理想に信頼を感じはじめたのではなかったのか。

156頁

幸徳秋水の「余が思想の変化」、即ち直接行動論の主張に同調するかに見えた人々といえどもはたして幾人がアナキズムまたはアナルコ・サンジカリズムを理解したか疑問と思われる時代であった。…

「海南評論」(1908年5月『日本平民新聞』)と題して中村に滞在中まの幸徳は第一インターにおけるバクーニン派の地方連合主義や無政府党が所謂暗殺主義に非らざる旨やゼネラル・ストライキの意義、非政治主義、非軍備主義等アナキズム的知識の供給につとめ、あるいはサボタージュを語り、アナキズムと労働組合との関係を述べるなど大いに努力しているが、それらのことが啄木にまで伝達されたと見得る点は、啄木が残した評論、書簡、日記等から発見できない。否、それらの幸徳の論説を啄木が入手する機会は殆どなかったという方が当っている。1907年以後の幸徳の直接行動論はアナキズム、アナルコ・サンジカリズムとしての理解よりも、片山潜らの議会中心の改良主義との対立において所謂革命的思想、革命主義として理解され賛成されていたのだと見るべきではないか。(その派に属した人々の中から後のポルシェビイキ派も生まれ出たという歴史上の事実も記憶しておく必要がある) 161頁

「啄木に関する断片」によって結論付けられ方向を与えられたものは啄木の思想ではなく「啄木」プラス「中野重治」なのである。

2

1909年までの啄木はナショナリストといわれてこそもっともふさわしい。しかしれは昭和に於けるもの──左翼、社会主義一般との対立物としての国粋主義、あるいは帝国主義の手先としての大陸侵略派、天皇一辺倒の擬古的排他的愛国主義者等々とはその底にヒューマニズムをふかく蔵していることで相距たるものであった。165頁

啄木は…アナキズムが権力と、特に国家(権力)と、つよく敵対するものであることには云い及んでいない。結論として啄木は大逆事件をとおしてアナキズムに注目し、同時に「国家」にたいして、特にその権力の性格について目をひらいたが、それは特殊なその時期の日本の支配者の権力、の行使としてのみ理解されたのではなかったか。日本国家と天皇制の問題について啄木がどの方向にこれを捉えていたかも明かでない。国家の権力組織としての根本性格について理解したのでなかったとすれば、アナキズムを知ったと云えるものではなく、時代としても啄木がそこまで明瞭に辿りつくことは不可能であった。その不徹底さが、社会主義的帝国主義という奇怪な表現を敢えてしたことともかかわっており、金田一京助のこの表現を記憶ちがいとしても、啄木をもっとも知る人がそう表現したところに啄木日頃の思考方法が却って示されていたのではなかったか。社会主義的帝国主義の帝国主義の方に力点をおいて晩年の啄木の思考を見るとすれば、彼が長く生きていたら国家社会主義? あるいは国家主義? という危惧の余地は十分あるのである。

                       178-179頁

3

甘さを剥がさず再検討することによってのみ啄木の文学の歴史的な位置を定めることができるものであろう。179頁

中野重治はまた啄木の詩や短歌をより綿密にし調べようとしなかったために、晩年の啄木が一方に社会主義に目ざめつつ、他方その目ざめにも影響されて生活と病気との挟み撃ちのなかでニヒリズムにとらえられつつあった重大な事実を見逃しているようである。啄木の、特にその最晩年の時期を歪曲なく受けとめるためには詩と短歌を重く見なければならない。大逆事件をめぐって、国家及び社会主義への認識を進めたことが作品に如何に反映したかをさぐることの必要からである。

180頁

啄木の社会主義的成長を事実以上の到達点で見ようとするよりも、矛盾のままの成長過程ととらえることの方が啄木の理解には必要である。でなかったら「秋の風我等明治青年の危機をかなしむ顔撫でて吹く」のような歌を味わうことができないではないか。

184-5頁 啄木のニヒリズム

 啄木のニヒリズムは、在るべき姿において健全に存在したならば国民生活の発展と向上にもっとも強力な推進力でなければならぬと思ってきた「国家」が、人民を圧迫する以外のものとしては在り得なかったことを知った後、それに対する力として民衆のなかに期待し得るものがなく、自己の困苦無力と併せての絶望に、その理由が求められるのである。187頁

1911年1月の土岐哀果との出会いは、啄木に小さな一時期の夢をあたえるものとなった。187頁

土岐哀果は入院中の啄木にクロポトキンの『自叙伝』を届け、また『ロシアの恐怖』を貸したのも彼であり、これがその以後のクロポトキンについての啄木の発言の手がかりであった。その前に『青年に訴う』を読んでいるがクロポトキンの研究はここに発している。後になって、彼がアナキズムに傾いたといわれたことも、さらに彼がアナキズムを知った時期が大逆事件以後であったと立証されるのも(したがって啄木が大逆事件によってアナキズムの性急さを知って転回した、というのが流説にすぎないことも)、これによってである。だがそのことよりももっと重要なのは、社会主義運動にほとんど手がかりをもつこ

とのなかった啄木が『樹木と果実』にかけた期待の大きさである。

「我々の雑誌を文学における社会運動という性質のものにしよう」ということに哀果と啄木の意見は合致したというが、こうした意見がこれまでわが国の文学雑誌に現われたことがあっただろうか。1905年に生まれた『火鞭』にこれほどの文学意識はなかった、とすれば、後のプロレタリア文学の目的にはるかにつながるものとして、さらにより近く、大杉栄、荒畑寒村の『近代思想』に先駆するものであったこの考え方の、時代にたいする意味の鋭さをわすれることはできない。190頁

ともに明治の冬の時代の下に於ける企画であったこと、異なる点は一つは歌人の得た社会意識が文学を越えて溢れんとするのであり、他は社会主義運動への弾圧に耐えて再出発の拠点たらしめんとするものであったが、時代にたいする抵抗的共感は『樹木と果実』が短歌雑誌の相貌を呈したとき啄木の中止説となり、後に土岐哀果が『近代思想』の重要な寄稿家となったことで証拠立てられる。『樹木と果実』から生活短歌の雑誌『生活と芸術』へと哀果・陽吉の協力で継続したことも忘らるべきではない。

十分力づよいものとは云えなくとも啄木と哀果の企画した「文学における社会運動」という意図は、よりはるかに根強いものとなって『近代思想』に、及び短歌の流れとして『生活と芸術』に、それぞれに一年と二年の後に現れる運命的な魁となったのである。

 だが思いをはてしなくひろげただけで『樹木と果実』は約二ヶ月の苦心の後に中止となった。啄木はまたそれから二ヵ月後の、6月15日から十数日の間に「呼子と口笛」の詩をかいた。ニヒリズムの色濃くそれは『悲しき玩具』の歌ともかさなり、絶望的な激情にいろどられている。191頁

「呼子と口笛」、ロマン主義の詩であると主張しよう 192頁

ニヒリズムが現実生活から強いられた絶望によって飛躍的に掴まれたロマン主義的色彩を帯びていることを私は強調する。いうなればニヒリズムもまたロマン主義たり得たのである。そのことを証明するのが「呼子と口笛」のなかの

暗き、暗き広野にも似たる、

わが頭脳の中に、

時として、電(いなずま)のほとばしる如く、

革命の思想はひらめけども──

にはじまる「はてしなき議論の後(一)」であり、つづいて

われらの且つ読み、且つ議論を闘わすこと、

しかしてわれらの眼の輝けること、

五十年前の露西亜の青年に劣らず。

──

若き婦人の熱心に変りはなけれど、

その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。

されど、唯一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、

'V-NARODO' と叫び出ずるものなし。

といった「はてしなき議論の後(二)」であるだろう。

193頁

この詩をこのように激情的なものに生み出した社会的な理由 が沈痛な逼息的冬の時代の圧力であったということは明らかにされてはいない。作者の啄木が実際に何の社会主義活動ともかかわり得なかったという事実がこの詩の生れた理由の一つであったということも説明されていない。これがまったく想像によってかかれた作品だということも語られなかった。幸徳秋水の死刑から五ヵ月後、啄木はこの詩の多くのヒントを土岐哀果に借りたクロポトキンの『自叙伝』から得ており、そこに記されたナロードニキの情熱に触発され、何らの活動もなく休止している日本の社会主義運動とも何も為し得ない自分自身とに反発しつつ、いわば空想の反逆的行為のなかに在ってこれらの詩はかくも激しく書かれたのである。病中の啄木が為し得たうっ屈する心の羽ばたき他ならなかった。

どんなにその詩が大正昭和の社会運動者の姿を先駆的にうたっていようとも空想は空想である。五十年前のナロードニキの行きづまりの果に立ったロシア虚無党のテロリストの心を理解出来たといっても、それは如何ともしがせたい明治の国家権力の下に民衆のなかに孤立する者の、空想的独白にすぎない。空想であったためにかくも勇ましくはげしくロマンチックに描けたのであろう。

われは知る、テロリストの

かなしき心を──

言葉とおこないとを分ちがたき

ただひとつの心を、

奪われたる言葉のかわりに

おこないをもて語らんとする心を、

われとわがからだを敵に擲げつくる心を──

しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有(も)つかなしみなり。

はてしなき議論の後の

冷めたるココアのひと匙を啜りて、

そのうすにがき舌触りに、

われは知る、テロリストの

かなしき、かなしき心を。   「ココアのひと匙」

 しかしこの詩をかく啄木は自分の絶望のすくいがたいということを知っていた。残るものはニヒリズムとその下から立ち上がるテロリストの心情だけである。とはいっても、テロリストの「行いをもて語らんとする」心と、「言葉とおこないとを分ちがたい」心をかなしき心としてしか捉え得なかったところに、精一杯の啄木がある。彼がわがものとなし得たのはそのテロリストの心情でのみあって、テロリズムとその社会的な力ではなかった。 196頁

1912年に入ってからの啄木は、窮乏のどん底にいた。

晩年のこの挫折的現象は、それがニヒルの心境であればあるほど、啄木の時代にたいする先進性を証拠だてるものと私は考えたい。明治の、敗北しなかった人々よりも、敗北的な姿の啄木に、未来への夢がかけられるのである。 198頁

★<対談・啄木の軌跡>

初出『ピエトロ』1971年9月

秋山清・伊藤信吉

(註 Kameadaによる要約)

伊藤、現代の詩人たちは短歌的抒情を否定する

牧水、白秋、啄木らの歌人はセンチメンタリズムによって自己を立証している、それはむしろ強烈な意味さえもっている。そういう点で、センチメンタリズムは詩的なものたり得ない、という簡単な考えかたは間違っているのではないかと思う 133頁

秋山、それは、わが意を得たりという発言だ。

秋山、啄木は短歌に尽きると極端に僕はそう言いたい

伊藤、啄木の社会主義思想は高度にものとか、すぐれたものとかはいえないかもしれませんが、あの時点では非常に進んでいる、…啄木が『明星』全体をひっくるめた中で、思想の質を高めたことは、詩人における時代とのかかわり方ということからして注目されるべきだと思う。時代の趨勢から抜きんでるのは、明治時代ではたいへんなことだったでしょう。そして大逆事件のことだが、あの時、与謝野鉄幹、木下杢太郎、佐藤春夫、永井荷風はそれぞれに事件に触れた作品をつくった。『明星』の中心的な人たちが事件に関心を持った。しかし、その関心の持ち方は、啄木の思的把握のようにはいかなかった。136頁

秋山、ロマン主義のしかも当時斜陽の存在であった新詩社が大逆事件に対して一番関心を示した文学者の集団ではなかったかと思うんですよ。与謝野鉄幹、木下杢太郎、佐藤春夫、平出修、啄木、これはちよっと考えてみてもいいことじゃないんですか。この問題は……。

伊藤、本来ならば自然主義文学の系統の作品が何らかの反応を示すべきなのでしょう。…

秋山、松岡荒村、思想家たるべき人だった、『荒村遺稿』というのがあって発売禁止になったのですが、その中に国家について文句をつけている論文があるのですよ。これなんか、当時問題になったはずだと思います。この荒村は先駆者として啄木に似ているし、一番近いように思います。しかし、1905年頃死にました。この彼までひっくるめて、明治時代の社会主義詩人はすべて新体詩人です。ところが大逆事件があって、その後に啄木の「呼子と口笛」が出るのですね。…つまりあれには上からの弾圧に対する啄木自身の憤りみたいなものがありますね。あそこに書かれている「墓碑銘」「はてしなき議論の後」「ココアの一匙」などに表れているような活動があったとは思わないのです。…あそこにはニヒルとテロルへの親近感がありますね。141頁

伊藤、それから、かれの社会主義思想の系譜からいえば、クロポトキンが一番近いでしょう。そうすると、かれがすぐさまクロポトキンの思想を批判して、マルクス主義に移ったということは考えられない、あの段階では…。146頁

■<秋山清による啄木伝>からの年譜化

1969年8月『子供のための伝記図書館』

岩手県北岩手郡渋民村の寺に育つ

15歳 盛岡中学3年生

短歌「あこがれ」

父は貧しい寺の僧侶

軍人にあこがれる、盛岡中のストライキで活躍

中学を退学した年に東京に出る、『明星』の与謝野夫妻を訪ねる、それからのち啄木と号して『明星』誌上に短歌、新体詩を発表、注目される

『帝国文学』『時代思潮』『太陽』に詩を発表、翌年、詩集『あこがれ』を刊行、

20歳 堀合節子と結婚、両親、妹と盛岡市内に住む、日露戦争の最中

21歳 渋民村に帰る、小学校の代用教員になる、1年きり、月給8円、小説を書く努力「雲は天才である」「面影」

22歳 5月、函館にいく、代用教員の月給12円、函館日日新聞で短歌の選者、文学、社会問題の評論

8月18日大きな火事が起きる、流浪的生活を翌年秋まで続ける

札幌、小樽、釧路と転々、地方の小新聞の記者として移る

23歳 釧路新聞社に入社、歌壇、詩壇で投書を募る、政治評論を書く、編集長格、月給25円

1908年 4月5日 釧路を去って函館に、さらに東京に出る

本郷菊坂町、赤心館に下宿、盛岡中学の上級生、友人の金田一京助を頼る

小説を書くが売れず、短歌を書く

1908年 11月1日 東京毎日新聞に小説が連載される「鳥影」

1909年 ★本郷森川町、24歳

1月10日 ★日記「自然主義作家としての飛躍」

1909年 3月1日、朝日新聞社に校正係りてせ就職、月給25円

本郷弓町の理髪屋の二階を借り家族を呼ぶ

森鴎外中心の雑誌『スバル』に参加、北原白秋、木下杢太郎、平出修も参加していた

★4月3日から6月16日までローマ字日記

6月16日 家族を上野駅に迎える

1910年 もっともすぐれた小説といわれる「我等の一団と彼」、論文「時代閉塞の現状」執筆

朝日歌壇がつくられ選者となる

「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」

大逆事件を熱心に調べる

1910年 12月 歌集『一握の砂』刊行

1911年 1月13日 土岐哀果と会う、雑誌『樹木と果実』刊行を計画

1911年 ★2月6日、大島経男宛書簡

1911年 病気が悪化

1911年 8月7日 弓町から小石川久堅町に移る(現文京区小石川5-11-7 宇津木マンション)

「呼子と口笛」の詩篇執筆

1912年 4月9日、土岐は第二歌集刊行の話を啄木に伝える

1912年 4月13日に数え年27歳で死去、久堅町(文京区)

1912年 4月15日、浅草等光寺で葬儀、土岐が生まれた寺、啄木の墓がある

1912年 6月20日、『悲しき玩具』刊行、土岐がタイトルはつける

1919年 三巻の全集が刊行される

日記

1909年

1.1金曜

今日から24歳、千駄ヶ谷に与謝野氏を訪ねる、平出君を訪ねる

1.2

1.9

連日『スバル』編集をめぐる話

1.10

1.14

小説に関して

1.15

余丁町に永井荷風を訪問、留守


吉田孤羊著『石川啄木と大逆事件』に関するメモ

1967年6月30日発行

明治書院刊

著者略歴

1902年盛岡市生まれ、岩手毎日新聞、中央新聞、改造社を経て岩手県立図書館副館長、盛岡市立図書館長を歴任。

<石川啄木と大逆事件>

1933年12月刊『石川啄木研究』

大島経男宛書信の引用 13-16頁

1910年1月9日

一友への書信(宮崎大四郎宛) 17-19頁

1910年3月13日

大島経男宛書信の引用 28-29頁

1911年2月6日

平出修との交流

つね日頃好みて言ひし革命の語をつつしみて秋に入れりけり

46頁

わが友は、古びたる鞄をあけて、

ほの暗き蝋燭の火影の散らぼへる床に、

いろいろの本を取り出したり。

そは皆この国にて禁じられたるものなりき。

やがて、わが友は一葉の写真を探しあてて、

「これなり」とわが手に置くや、

静かにまた窓に凭(よ)りて口笛を吹き出したり。

そは美しくとにもあらぬ若き女の写真なりき。

52頁

<墓碑銘>

われは常にかれを尊敬せりき

しかして今も猶尊敬す──かの郊外の墓地の栗の木の下に

かれを葬りて、すでにふた月を経たれど。

実に、われらの会合の席に彼を見ずなりてより

すでにふた月は過ぎ去りたり。

かれは議論家にてはなかりしど

なくてかなはぬ一人なりしが。

或る時、彼の語りけるは

「同志よ、われの無言をとがむることなかれ。

われは議論すること能はず

されど、我には何時にても起つことを得る準備あり。」

「かれの眼は常に論者の怯懦を叱責す。」

同志の一人はかくかれを評しき。

然り、われもまた度度しかく感じたりき。

しかして、今や再びその眼より正義の叱責をうくることなし。

かれは労働者──一個の機械職工なりき。

かれは常に熱心に、且つ快活に働き

暇あれば同志と語り、またよく読書したり。

かれは煙草も酒も用ゐざりき。

かれの真摯にして不屈、且つ思慮深き性格は

かのジュラの山地のバクウニンが友を忍ばしめたり。

かれは烈しき熱に冒されて、病の床に横はりつつ

なほよく死にいたるまで譫言を口にせざりき。

「今日は五月一日なり、われらの日なり。」

これかれのわれに遺したる最後の言葉なり。

この日の朝(あした)、われはかれの病を見舞ひ

その日の夕(ゆふべ)。かれは遂に永き眠りに入れり。

ああ、かの広き額と、鉄槌のごとき腕と

しかして、また、かの生を恐れざりしごとく

死を恐れざりし、常に直視する眼と

眼(まなこ)つぶれば今も猶わが前にあり。

彼の遺骸は、一個の唯物論者として

かの栗の木の下に葬られたり。

われら同志の撰びたる墓碑銘は左の如し

「われには何時にても起つことを得る準備あり。」

1911年6月16日の作

■■メモ

吉田孤羊『石川啄木と大逆事件』

「啄木日記に現われた大逆事件」(昭和24年1月、3月『東北文庫』初出)

79頁

6

 ここには、当時アメリカの反響がどんなふうであったかを知るため『朝日評論』(昭和25年8月号)に紹介された「世界の眼に大逆事件はどう映ったか」からの若干の抜き書きを許さしていただく。

★★註 Kameda 初出が「昭和」24年のテキストであるがテキスト収載の『朝日評論』は「昭和」25年刊と記してある。どちらかが誤記。

引用は2頁余り

「米国アナキストは、エマ・ゴールドマン女史を先頭に、11月、左の如は抗議文を、内田大使につきつけた。(11月28日「ニューヨーク・コール」紙)

反響、ニュージャージー州ピーターソン市の労働者を始め

ボストン「ウーマンズ・ジャーナル」主筆ブラックウェル嬢、セントルイスの「ミラー紙」などはカンカンガクガクの日本攻撃の筆陣を張り、有名な平和主義者ミード夫人は、この事件を契機に日本の死刑廃止運動を起そうとまでした。特に22日夜ニューヨークの婦人労働組合連盟で開かれたゴールドマンらの演説会は盛会であった。

 越えて11月28日、ニューヨークのアナキスト機関紙「ニューヨーク・コール」は、アピール発表以後の同志の活動を報告し、「手遅れにならぬ前に抗議せよ」と叫んだ。12月にはいるや「幸徳を救え!」の声はますます大きくなり、日本大使館及び領事館に送られた抗議文、抗議電報は矢の如く、それも最初はニューヨーク市付近のものが多かったが、その後は全米各州より送られ、…また抗議者の顔触れも、アナキストや労働者のみならず、宣教師、大学教授等の知識階級も参加し、……

ジャック・ロンドンの抗議文

ブリュッセルの第二インターナショナル本部では加盟17ヶ国の社会党に幸徳救助運動を訴え、その第一線に米国社会党を推した。集会はバンクーバー(12月11日)、ニューヨーク(12日)、サンフランシスコ、ロサンゼルス、シアトル、オークランド、ポートランド等で続々開かれ、…なかんずく西海岸の日本人の運動が目覚しく、I.W.W.と握手して日本政府に対し、もし幸徳の死刑を実行するならば「何ごとかを決行す」という情勢を示した。これらの抗議運動中最も人目を引いたのは12日のニューヨークの集会で、ゴールドマンは「桂総理、我々はここにニューヨークの自由主義者として大集会を催し、幸徳及びその同志に対し野蛮にも通過せしめた判決に対し厳重抗議する」という電文を読み上げ、日本同志救済の寄付金を集めたが、当夜及び各所合計八百ドル集まったのを日本へ送った。

 翌1911年1月18日、幸徳らへの死刑判決があり、24日処刑の報が来たるや、随所に日本政府攻撃の演説会が開かれ、サンフランシスコの日本社会主義者はジャック・ロンドンと協議して25日、幸徳らのため通夜を営み、1月24日を日本革命記念日とする宣言を発した。

宣言の引用

続いて29日、ニューヨーク、ウェブスター・ホールにアナキスト大会が開かれ、国際革命運動をもって日本政府に復讐すること、幸徳らの意志をついでその計画を遂行する趣旨を決議し、…一千人以上の群集が領事館にデモを行い、警官隊と衝突した。

カナダ、コロンビア州での社会党議員が州議会への「幸徳助命決議案」を上程しようとするが、矢田領事が阻止工作をする。