石川啄木


『石川啄木全集』    筑摩書房 1980年刊 第四巻に関するメモ 2004.4.28開始


1頁 42行×26字 「大逆事件」関連テキスト

★「所謂今度の事」

解題

『文学』1957年10月号に初めて発表

発見の経過 

1957年7月20日付「朝日新聞」に秘められた啄木の社会時評

林中の鳥という匿名で書き朝日に掲載依頼、実現しなかった

 (一)

 二三日前の事である。途で乾を覚えてとあるビイヤホオルに入ると、窓側の小さな卓を囲んで語っている三人連の紳士が有った。私が入って行くと三人は等しく口を噤んで顔を上げた。見知らぬ人達で有る。私は私の勝手な場所を見付けて、煙草に火を点け、口を潤し、そして新聞を取上げた。外に相客といふものは無かった。

 やがて彼等は復語りだした。それは「今度の事」に就いてゞ有った。今度の事の何たるかは固り私の知らぬ所、又知らうとする気も初めは無かった。すると、不図手にしている夕刊の或一処に停まった儘、私の眼は動かなくなった。「今度の事は然し警察で早く探知したから可かったさ。焼討とか赤旗位なら魔だ可いが、彼様(あん)な事を実行されちゃそれこそ物騒極まるからねえ。」……

 …彼の三人の紳士をして、無政府主義といふ言葉を口にするを躊躇して唯「今度の事」と言はしめた、それも亦恐らくは此日本人の特殊なる性情の一つでなければならなかった。

 (二)

 ……

其の一つは往年の赤旗事件で有る。帝都の中央に白昼不穏の文字を染めた紅色の旗を翻して。警吏の為に捕われた者の中には、数名の年若き婦人も有った。其婦人等──日本人の理想に従えば、穏しく、しとやかに、万に控え目で有るべき筈の婦人等は、厳かなる法廷に立つに及んで、何の臆する所なく面を揚げて、「我は無政府主義者なり。」と言った。それを伝え聞いた国民の多数は、目を丸くして驚いた。

 (三)

 さうして第二は言ふまでもなく今度の事で有る。

 今度の事とは言ふものゝ、実は我々は其事件の内容を何れだけも知ってるのでは無い。秋水幸徳伝次郎といふ一著述家を首領とする無政府主義者の一団が、信州の山中に於て密かに爆裂弾を製造している事が発覚して、…

 (四)

 欧羅巴に於ける無政府主義の発達及び其運動に多少注意を払ふ者の、先づ最初に気の付く事が二つ有る。一つは無政府主義者と言はるゝ者の今日迄に為した行為は凡て過激、極端、兇暴で有るに拘はらず、其理論に於ては、祖述者の何人たると、集産的たると、個人的たると共産的たるとを問はず、殆んど何等の危険要素を含んでいない事で有る(……)。も一つは、其等無政府主義者の言論、行為の温和、過激の度が、不思議にも地理的分布の関係を保っている事で有る。──これは無政府主義者の中に、クロポトキンやレクラスの様な有名な地理学者が有るからといふ洒落ではない。

 (五)

 ……

 第一の関係は、我々がスチルネル、プルウドン、クロポトキン三者の無政府主義の相違を考へる時に、直ぐ気の付く所で有る。蓋しスチルネルの所説の哲学的個人主義的なる、プルウドンの理論の頗る鋭敏な直感的傾向を有して、而して時に感情に趨らんとする、及びクロポトキンの主張の特に道義的な色彩を有する、それらは皆、彼等の各の属する国民──独逸人、仏蘭西人、露西亜人──といふ広漠たる背景を考ふることなしには、我々の正しく理解する能はざる所で有る。

 そして第二の関係──其国の政治的、社会的状態と無政府主義との関係は、第一の関係よりも猶一層明白である。

             [明治四十三年六月~七月稿]

★無題

「幸徳等所謂無政府共産主義者の公判開始は近く四五日の後に迫り来れり。

解題

未発表、署名なし、1910年12月5日前後の作

★「日本無政府主義者陰謀事件経過及び附帯現象」全集303頁

(啄木のコメントをさらに要約)

1910年6月2日

本件の犯罪、記事差止命令を受ける

6月3日 

本件の犯罪に関する記事初めて諸新聞に出づ。

6月5日

初めて本件犯罪の種類、性質に関する簡短なる記事が出で、

6月8日

大石関連 東京朝日新聞は、大石を初め同人甥西村伊作、牧師沖野岩三郎外五名家宅捜索を受け、…

6月13日

宮下太吉の姉妹に関する記事

6月21日

「無政府主義者の全滅」

本件は最初社会主義者の陰謀と称せられ

8月4日

文部省訓令、全国図書館に於て社会主義に関する書籍を閲覧せしむる事を厳禁したり

8月29日

韓国併合詔書の煥発と同時に

9月6日

社会主義書類五種発売禁止、残本差押さえ

9月19日

●社会主義者の検挙

神奈川県警、田中佐市、金子新太郎、未決監収容

大和田忠太郎、高畑巳三郎、拘引

吉田只次、加藤時次郎、家宅捜索のみ

9月23日

●社会主義者の取調

●京都の社会主義者狩

着手したる様子あり

9月24日

紐育電報

●日本社会党論評

21,22日の諸新聞

●堺、大杉等の転監、

22日夜8時東京監獄より…

10月5日

●社会主義者の疲弊

守田有秋、福田武三郎、昨4日、自宅より拘引

守田は一時間余りの訊問にて放還

11月8日

●社会主義公判

11月9日

社会主義者の氏名(註 間違いあり)

11月10日

●無政府主義者

公判開始決定

大審院に付すべきものと決定す

「決定書」

▲大陰謀の動機

▲刑法73条の罪

▲公判と弁護人

▲桑港に於ける幸徳

▲被告中の紅一点

▲獄裡の被告

▲一味徒党の面々

次の一章は…外務省が在外公館に送付した資料

「公判公開禁止」

(明治44年1月稿)

解題

日記風の感想録、新聞記事スクラップ、若干の印象を記す、これを綴じ合わせて一冊の分厚いノートのかたちをとっている

★郁雨に与ふ 在大学病院

註 死刑の夢の記述

1911年2月、3月 『函館日日新聞』

★小説「墓場」…

★日露戦争論(トルストイ)

★『A LETTER FROM PRISON』

‘V'NARODO' SERIES

註<全体のテキスト量>

80年「全集」でのテキスト量は29頁半

うち18頁半は幸徳とクロポトキンのテキスト

啄木自身のテキストは11頁

註 啄木に依る前書き 35行×26字のうち21行タイピング

「この一篇の文書は、幸徳秋水等二十六名の無政府主義者に関する特別裁判の公判進行中、事件の性質及びそれに対する自己の見解を弁明せむがために、明治四十三年十二月十八日、幸徳がその担当弁護人たる磯部四郎、花井卓蔵、今村力三郎の三氏に獄中から寄せたものである。初めから終わりまで全く秘密の裡に審理され、さうして遂に予期の如き(予期! 然り。帝国外務省さへ既に判決以前に於て、彼等の有罪を予断したる言辞を含む裁判手続説明書を、在外外交家及び国内外字新聞社に配付していたのである)判決を下されたかの事件──あらゆる意味に於いて重大なる事件──の真相を暗示するものは、今や実にただこの零砕なる一篇の陳弁書あるのみである。これの最初の写しは、彼が寒気骨に徹する監房にこれを書いてから十八日目、即ち彼にとって獄中に迎へた最初の新年、さうしてその生涯の最後の新年であった明治四十四年一月四日の夜、或る便宜の下に予自らひそかに写し取って置いたものである。予はその夜の感想を長く忘れることが出来ない。…

文中の句読は謄写の際に予の勝手に施したもの、又或る数箇所に於て、一見明白なる書違ひ及び仮名づかひの誤謬は之を正して置いた。

明治四十四年五月  H, I.

註 幸徳のテキストはタイトルなしで飾罫で区分けされ始まる。全集12頁のテキスト量

註 幸徳のテキストには「EDITOR' NOTES」への注番号が付いている

「EDITOR'NOTES」

一 幸徳はこれを書いてから数日の後、その弁護人の勧めによって、この陳弁書と同一の事を彼自ら公判廷で陳述したさうである。…此事を友人にして且つ同事件の弁護人の一人であった若い法律家H──君から聞いた。

二 註 概要<無政府共産党陰謀事件>をめぐる新聞社内の「社員」のやりとり> 全集で7頁近いテキスト量

「乱臣賊子の弁護をするのは、不埒だといふ意味の脅迫的な手紙が二三の弁護士の許に届いたのは事実である。さうしてさういふ意見が無智な階級にのみでなく、所謂教育ある人士の間にさへ往々にして発見されたのも事実である。…

 三つの種類の人達が別に存在していた。その一は思想を解する人々である。…

 その二は政府当局者である。…

 その三は時代の推移について多少の理解を有つている教育ある青年であった。…予は現に帝国大学の法科の学生の間に、主としてこの事件の影響と認むべき事情の下に、一つの秘密の社会主義研究会が起ったことを知っている。また嘗て予を訪ねて来た一人の外国語学校の生徒の、学生の多くが心ひそかに幸徳に対して深い同情をもっていることを指摘し、「幸徳の死は最も有力なる伝道であった」と言ったのを聞いた。…

三 …

新聞記者も、乃至はこの事件の質問演説を試みた議員までも社会主義と無政府主義との区別すら知らず、従ってこの事件の性質を理解することの出来なかったのは、笑ふべくまた悲しむべきことであった。予が其処に於いてひそかに読むを得たこの事件の予審決定書にさへ、この悲しむべき無智は充分に表はされていた。日本の予審判事の見方に従へば、社会主義には由来硬軟の二派あつて、即ち暴力主義、暗殺主義なのである。

四 

註 <一頁余り、啄木による無政府主義と暗殺主義の生理、クロポトキン自伝の英文引用> 英文テキストは6頁半の分量

本文一部↓

幸徳が此処に無政府主義と暗殺主義とを混同する誤解に対して極力弁明したといふことは、極めて意味あることである。

註 四名の一致したテロリストと内山愚童のことを述べる

本文

さうして幸徳及び他の被告の罪案は、ただこの陳弁書の後の章に明白に書いてある通りの一時的東京市占領の計画をした<★註 幸徳は「陳弁書」でも「訊問調書」でも触れていない、啄木が、幸徳の巴里コミューンの話しと混同しているのではないか>といふだけの事で、しかもそれが単に話し合っただけ──意志の発動だけにとどまって、未だ予備行為に入っていないから、厳正の裁判では無論無罪になるべき性質のものであったに拘らず、政府及びその命を受けたる裁判官は、極力以上相連絡なき三箇の罪案を打って一丸となし、以て国内に於ける無政府主義を一挙に撲滅するの機会を作らんと努力し、しかして遂に無法にもそれに成功したのである。予はこの事をこの事件に関する一切の智識から判断して正確であると信じている。されば幸徳は、主義のためにも、多数青年被告及び自己のためにも、又歴史の正確を期するためにも、必ずこの弁明をなさねばならなかったのである。

 一切の暴力を否認する無政府主義者の中には往々にしてテロリズムの発生するのは何故であるかといふ問ひに対して、クロポトキンは大要左の如く答へているさうである。

★註 クロポトキンの翻訳テキストを引用 8行

★註 さらに英文の自伝から露西亜青年の革命闘争の部分を引用

五 ★註<相互扶助などクロポトキンの論文の説明> テキスト量、1頁半

本文↓部分、略あり

相互扶助といふ言葉は殆どクロポトキンの無政府主義の標語になっている。彼はその哲学を説くに当って常に科学的方法をとった。更に人間界に及ぼした。人類が苦しんでいるのは、全く現在の諸組織、諸制度の悪いために外ならぬのである。権力といふものを是認した結果に外ならぬのである。

 この根底を出発点としたクロポトキン(幸徳等の奉じたる)は、その当然の結果として、今日の諸制度、諸組織を否認すると同時に、また今日の社会主義にも反対せざるを得なかった。政治的には社会全体の権力といふものを承認し、経済的には労働の時間、種類、優劣等によってその社会的分配に或る差等を承認しようとする集産的社会主義の思想は、彼の論理から見れば、今日の経済的不平等を来した原因を更に名前を変へただけで継続するものに過ぎなかった。

 編輯者の現在無政府主義者に関して有する知識は頗る貧弱である。

1911年5月稿

全集解題

啄木没後にその存在が明らかになったもので、ノート146頁にわたって記載

全体は「A LETTER FROM PRISON」「EDITOR' NOTES」の二部

ノートの最初に解説した文書を据える

★平信

「四 

註 クロポトキンの冊子のこと 露西亜の牢獄」

1911年11月3日起稿

全集解題

生前未発表の原稿、公開的手紙

第六巻

★明治四十四年当用日記

1月3日

平出君の処で無政府主義者の特別裁判に関する…自分が裁判長だったら

1月4日

夜、幸徳の陳弁書を写す

1月5日

幸徳の陳弁書を写し了る。

1月6日

借りて来た書類を郵便で平出君に返した。

夕飯の時は父と社会主義について語った。

1月10日

社に行くと谷静湖から約束の冊子が届いていた。

在米岩佐作太郎なる人から贈って来たといふ革命叢書第一篇

クロポトキン著「青年に訴ふ」の一書である

ク翁の力ある筆は今更のやうに頭にひゞいた。

1月11日

社で渋川氏に岩佐等の密輸入の話をした。

市俄(高)古の万国労働者の代表者から社に送って来た幸徳事件の抗議書──それは社では新聞に出さないといふので予が持って来た──を見せた。

1月12日

午前に丸谷君が一寸来た。前夜貸した「青年に訴ふ」を帰しに来たのである。

1月14日

丸谷君が貸しておいた幸徳の陳弁書を持って遊びに来た。

1月16日

我々の雑誌を文学に於ける社会運動といふ性質のものにしようといふ事に二人の意見が合した

1月18日

今日は幸徳らの特別裁判宣告の日であった。社に出た。

二時半過ぎた頃 「二人だけ生きる生きる」「あとは皆死刑だ」

1月19日

朝に枕の上で国民新聞を読んでいたら俄かに涙が出た。「畜生! 駄目だ!」さういふ言葉も我知らず口に出た。

1月20日

昨夜大命によって二十四名の死刑囚中十二名だけ無期懲役に減刑されたさうである。

1月23日

休み。

幸徳事件関係記録の整理に一日を費やす。

1月24日

社へ行ってすぐ、「今朝から死刑をやってる」と聞いた。

夜、幸徳事件の経過を書き記すために十二時まで働いた。これは後々への記念のためである。

1月25日

昨日の死刑囚死骸引渡し、それから落合の火葬場の事が新聞に載った。

かへりに平出君へよつて幸徳、管野、大石等の獄中の手紙を借りた。

明日裁判所へかへすといふ一件書類を一日延して、明晩行って見る約束にして帰った。

1月26日

特別裁判一件書類をよんだ。七千枚十七冊、

十二時までかゝって漸く初二冊とそれから管野すがの分だけ方々拾ひよみした。

頭の中を底から掻き乱されたやうな気持ちで帰った。

1月29日

外国語学校の阿部康蔵君が来た。無政府党のことについて語って、「学生には同情してる者の方が多いやうだ」と語っていた。

2月10日

函館の新聞には無政府党の死刑囚の一人が死刑前に巻煙草を三本のんで、「これでいゝ」と言ったことが何からか転載されてあった。煙草!

2月23日

土岐君が来て十二時頃まで話して行った。クロポトキンの自伝を持って来てかしてくれた。

2月24日

クロポトキンを読み始めた。

4月20日

丸谷君と無政府主義の事に関して議論をした。

4月22日

毎日平民新聞やその後のあの派の出版物をしらべている。

5月12日

クロポトキンの自伝を、拘引された処から脱獄して英吉利へ行ったところまで読んだ。妙にいろいろのことが考へられた。

6月5日

北輝次郎の「純正社会主義の哲学」を読んだ。

7月1日

創作に「はてしなき議論の後」(詩)新日本…載る

7月11日

夜、森田草平君来り、幸徳のことを語り十一時半に至る

11月12日

丸谷君が来た。彼は今では、社会主義は到底実行されないと信ずると言った。

11月17日

先月からかゝって写していたクロポトキンの「ロシヤの恐怖」を写してしまったので、製本した。

★明治四十四年当用日記補遺

前年中重要記事

六月──幸徳秋水等陰謀事件発覚し、予の思想に一大変革ありたり。これよりボツボツ社会主義に関する書籍雑誌を聚む。

★千九百十二年日記

1月30日

帰りがけに或本屋からクロポトキンの『ロシア文学』を二円五十銭で買った。

「時代閉塞の現状」の冒頭の方でも確か「家父長制」と「婦人への抑圧」に関して、触れていましたが、「所謂今度の事」で1908年の「赤旗事件」の被告とされた婦人たちのことに触れています。

 四人の女性のうち二人は無罪、一人は執行猶予、一人は実刑から控訴して執行猶予となります。それでも三ヶ月前後は獄舎に囚われるわけです。管野須賀子が無罪にならなければ、大逆事件に至ったかどうか、また別の過酷な弾圧は生起

「所謂今度の事」(1910年6月から7月稿)の二章の部分

 …其の一つは往年の赤旗事件で有る。帝都の中央に白昼不穏の文字を染めた紅色の旗を翻して。警吏の為に捕われた者の中に

は、数名の年若き婦人も有った。其婦人等──日本人の理想に従えば、穏しく、しとやかに、万に控え目で有るべき筈の婦人等は、厳かなる法廷に立つに及んで、何の臆する所なく面を揚げて、「我は無政府主義者なり。」と言った。それを伝え聞いた国民の多数は、目を丸くして驚いた。……